2019年 02月 23日
六代目・中村歌右衛門(1917~2001)

六代目・中村 歌右衛門(なかむら うたえもん)
歌舞伎俳優
1917年(大正6年)~2001年(平成13年)
1917年(大正6年)、五代目中村歌右衛門の次男として東京府豊多摩郡千駄ケ谷(現在の東京都渋谷区)に生まれる。幼少時に母親の実家である河村家に養子入りしたため、本名は河村 藤雄となる。父・五代目歌右衛門は歌舞伎座幹部技芸委員長として当時の劇界を牽引する大役者であり、御曹司として何不自由ない幼年時代を過ごした。この頃、先天性の左足脱臼が悪化して数年寝込み、大手術を行ってやっと歩けるようになったといわれる。そのため、歌右衛門の左足の動きは終世ぎこちなかった。1922年(大正11年)、東京新富座『真田三代記』で三代目中村兒太郎を襲名して初舞台を踏む。小学校卒業後も父のもとで女方の修業を続け、1932年(昭和7年)の青年歌舞伎一座の旗上げで「娘道成寺」の花子役を踊り、一躍注目される。順風満帆と思われた舞台人生だが、1933年(昭和8年)に兄・五代目中村福助が早世すると状況が一変。同年、父の意向により歌舞伎座『絵本太功記・十段目』の初菊で六代目中村福助を襲名。成駒屋の次代を担うべき人としての重圧がかかる。しかし、1940年(昭和15年)にはその父も死去し、若き福助は歌舞伎界の孤児となる。この頃すでに次世代の六代目尾上菊五郎が絶頂期にあり、五代目が死ぬと周囲の人々は手のひらを返すようにして菊五郎のもとへとなびいた。福助のもとへは挨拶に来る者も稀で、有力な後盾はおろか、相談相手にも事欠くような有様となってしまった。1946年(昭和21年)、歌舞伎座『絵本太功記』「十段目」の初菊、『浮世柄比翼稲妻』(鈴が森)の白井権八などで六代目中村芝翫を襲名。以後は、六代目菊五郎とともに「菊吉」と並び称された初代中村吉右衛門を頼んで吉右衛門劇団に所属した。ここで若手女形としての修業を重ね、吉右衛門や大阪の三代目中村梅玉、二代目實川延若らの薫陶をうける。吉右衛門劇団では同世代の女形が少なく、長らく吉右衛門の相方をつとめてきた弟の三代目中村時蔵に代わり、次第に芝翫がその後釜にすわるようになっていった。吉右衛門は特に戦争末期ごろから芝翫を次々と大役に抜擢し、舞台上で彼をリードするかたちで芝翫を育てていった。このころの芝翫はその輝くような美貌で有名で、若手のなかでは三代目尾上菊之助(後の七代目尾上梅幸)と並び称されたが、吉右衛門が得意とする義太夫狂言に多く出ることで、演目に対する解釈を深め、役柄をしっかりと把握、古典的な様式美に近代的な心理描写を加えた表現手法を着々と身につけていった。特に1947年(昭和22年)東京劇場での『籠釣瓶』の八ツ橋役は戦後歌舞伎の運命を拓いたと評されるほど絶賛された。1948年(昭和23年)、文部省芸術祭文部大臣賞を受賞。1951年(昭和26年)、歌舞伎座『妹背山女庭訓』のお三輪、『京鹿子娘道成寺』の白拍子花子、『祇園祭礼信仰記』(金閣寺)の雪姫で六代目中村歌右衛門を襲名。口上では金屏風を前に、吉右衛門と七代目中村福助のみを後見として臨み、口上そのものも吉右衛門のみが行った。吉右衛門の亡き後は、十七代目中村勘三郎、八代目松本幸四郎(後の初代松本白鸚)と共に劇団の3本柱となった。1954年(昭和29年)に自主的勉強会「莟会」を発足させ、数々の実験的な試みも行った。1960年(昭和35年)、アメリカ本土公演に参加。これを皮切りにハワイ、カナダ、イギリス、ドイツ、フランスなど多数の海外公演へ積極的に参加し、歌舞伎の海外への紹介に尽力した。1962年(昭和37年)、日本芸術院賞を受賞。1963年(昭和38年)、史上最年少の46歳で日本芸術院会員となる。1968年(昭和43年)、重要無形文化財保持者各個認定(人間国宝)を受ける。1969年(昭和44年)、日本俳優協会会長だった三代目市川左團次の死去にともない会長代行に就任。2年後に同協会会長に就任し、28年の長きにわたりその職を務めた。1972年(昭和47年)、文化功労者に選出。1975年(昭和50年)、来日した英国のエリザベス女王の前で公演を行う。1979年(昭和54年)、文化勲章を受章。1980年代前半になると足の衰えが顕著になり始め、「一世一代」と銘打たれた興行も見られるようになった。平成に入ると舞台に立つ機会はさらに少なくなったが、そんな中でも舞台の監修を積極的に行い、後進の四代目中村雀右衛門 、五代目坂東玉三郎、九代目中村福助らに稽古をつけた。 1996年(平成8年)の舞台を最後に療養生活に専念。同年、勲一等瑞宝章を受章。芸能界では初の勲一等生前叙勲となった。2001年(平成13年)3月31日午後6時47分、慢性呼吸不全のため東京都世田谷区の自宅で死去。享年84。



戦後の歌舞伎界で女形の最高峰と評された六世・中村歌右衛門。当たり役「道成寺」の花子で史上最年少の日本芸術院会員となり、その後も人間国宝、文化勲章と様々な栄典を受けて、名女形の道を欲しいままにした。芸に厳しく、少しでも女性に近づけるよう本番前には両手を長時間冷水に浸すという話は知る人ぞ知るエピソードである。柔和な笑顔で物腰柔らかな喋りをすることから一見穏やかそうに見えるが、NHKのインタビューで「ガヤガヤするのは嫌いでございまして」「謙虚がなければ芸はダメでございますよ」とキツイことをサラッと言ってのける怖い人であった。文字通り芸に生きた男は、当たり役『積恋雪関扉』墨染そのままに、満開の桜に雪の舞う2001年3月31日に世を去った。華麗で格調高い演技を見せた中村歌右衛門の墓は、東京都港区の青山霊園にある。3基建ち並ぶ「河村家墓域」の真ん中「河村藤雄 河村つる子」の墓に歌右衛門は納められており、左側に墓誌が建つ。

