人気ブログランキング | 話題のタグを見る

團伊玖磨(1924~2001)

團伊玖磨(1924~2001)_f0368298_13361694.jpg

團 伊玖磨(だん いくま)

作曲家
1924年(大正13年)~2001年(平成13年)

1924年(大正13年)、実業家・学者・政治家であった男爵・團伊能の長男として東京府東京市四谷区(現在の東京都新宿区)に生まれる。1931年(昭和6年)、青山師範学校附属小学校に入学し、ピアノを学び始めた。翌年3月、祖父・團琢磨が暗殺された(血盟団事件)ことで、幼心に物質的な栄達への疑問を抱くようになり、後に芸術を志す動機のひとつとなった。そんな作曲を志す息子の将来を案じた父が伊玖磨を伴い山田耕筰を訪れ、耕筰に作曲の道が険しいことを説いてもらって断念させようとした。ところが、耕筰は「やり給え、そして、やるからには、最も正統的な勉強を積んで、最も本格的にやり給え」と激励。このことで、伊玖磨は作曲の道で生きていく決意を固め、耕筰を生涯の師として仰ぐことになった。1937年(昭和12年)、青山学院中学部に入学。1942年(昭和17年)には東京音楽学校(現在の東京藝術大学)作曲部に入学した。学校では下総皖一に和声学と対位法、橋本國彦に近代和声学と管弦楽法、細川碧に楽式論を学び、学外では山田耕筰に指導を受けた。1944年(昭和19年)、音楽学校に在籍のまま陸軍戸山学校軍楽隊に入隊。軍楽隊ではバスドラムを担当し、芥川也寸志とともに編曲も担当した。翌年には復員して東京音楽学校を卒業。その後、諸井三郎に対位法、楽曲分析を学び、歌曲集『六つの子供の歌』、管弦楽付き独唱曲二つの抒情詩『村の歌』『小諸なる古城のほとり』を作曲した。1946年(昭和21年)、近衛秀麿に管弦楽法、指揮法を学ぶ。同年、『二つの抒情詩』(管弦楽付き独唱曲)で日本音楽連盟委嘱コンクールに入選。また、歌曲集『五つの断章』(北原白秋詩)を作曲した。1947年(昭和22年)、歌曲『花の街』(江間章子詩)を作曲。1948年(昭和23年)、NHK専属作曲家となる。1949年(昭和24年)、木下順二作品の民話劇『夕鶴』の演劇付帯音楽を作曲。1950年(昭和25年)、『交響曲第1番イ調』がNHK創立25年記念管弦楽曲募集コンクールにて特選入賞を果たし注目を集める。この頃には、『ぞうさん』『おつかいありさん』『やぎさんゆうびん』といった童謡も手がけるようになる。1952年(昭和27年)、初のオペラ『夕鶴』が大阪で初演。同作で毎日音楽賞、伊庭歌劇賞、山田耕筰賞を受賞し、その後世界各国で上演されて好評を博した。これを皮きりにオペラとオーケストラ作品が創作活動の中心となる。1953年(昭和28年)、芥川也寸志、黛敏郎と「三人の会」を結成。自作作品発表のための音楽活動を展開し、同会で『ブルレスク風交響曲』『管弦楽組曲「シルクロード」』などを発表した。1954年(昭和29年)、東宝映画専属音楽監督に就任。1955年(昭和30年)、日本の民族的題材を扱ったオペラ『聴耳頭巾』を大阪で初演。1958年(昭和33年)、大佛次郎の台本によるオペラ『楊貴妃』が藤原歌劇団創立25周年記念東京公演として初演。同年、慶應義塾創立百周年記念式典のために混声合唱と管弦楽のための「慶應義塾式典曲」を作曲。1959年(昭和34年)、皇太子明仁親王と正田美智子の成婚を記念して『祝典行進曲』を作曲。1963年(昭和38年)、混声合唱組曲『岬の墓』で芸術祭文部大臣賞を受賞。1964年(昭和39年)、東京オリンピック開会式にて『オリンピック序曲』、『祝典行進曲』、閉会式にて『祝典行進曲』を演奏。同年、エッセイ『パイプのけむり』の連載を雑誌「アサヒグラフ」にてスタート。以降、同誌が休刊するまでの36年間連載を続けた。1966年(昭和41年)、日本芸術院賞を受賞。1968年(昭和43年)、『パイプのけむり』、『続パイプのけむり』で第19回読売文学賞(随筆・紀行)を受賞。同年、混声合唱組曲『筑後川』を作曲。また。鳥取県民歌制定委員会作詞、團伊玖磨作曲の鳥取県民歌「わきあがる力」が制定される。1972年(昭和47年) 、オペラ『ひかりごけ』で芸術選奨文部大臣を受賞。1975年(昭和50年)、オペラ『ちゃんちき』を東京で初演。1976年(昭和51年)、ソプラノ・ソロと管弦楽のための『長良川』(江間章子詩)を作曲。1978年(昭和53年)、合唱組曲『大阿蘇』(丸山豊詩)を作曲。1982年(昭和57年)、横須賀市制75周年記念事業の一環として、合唱と管弦楽のための組曲『横須賀』(栗原一登詩)を委嘱され作曲。1983年(昭和58年)、ピアノ組曲『3つのノヴェレッテ』、合唱組曲『唐津』、独唱・混声合唱・オーボエ・ピアノのための組曲『木曽路』、子供の歌アルバム『道の子の歌』、ヴァイオリンとピアノのための『幻想曲第2番』等を作曲。1985年(昭和60年)、『交響曲第6番「HIROSHIMA」』を広島平和コンサートで初演。1997年(平成9年)、急性心筋梗塞を発症。約1ヶ月間入院した後、オペラ『建・TAKERU』を初演。1999年(平成11年)、文化功労者に選出。2001年(平成13年)5月17日、日本中国文化交流協会主催の親善旅行で中国旅行中に心不全を起こし、江蘇省蘇州市の病院で死去。享年77。


團伊玖磨(1924~2001)_f0368298_13353060.jpg

團伊玖磨(1924~2001)_f0368298_13353199.jpg

日本を代表するクラシック音楽の作曲家の一人、團伊玖磨。華族に生まれながら音楽に魅せられ、その生涯を音楽に捧げた人であった。作曲家としては、オペラ、交響曲、歌曲などのクラシック音楽のほか、童謡、映画音楽、果ては校歌や県民歌などのジャンルを手がけ、その作品群はとても一人の作曲家が担当したとは思えない幅広さを誇っている。庶民が愛する豊かな音楽を求め続けた團伊玖磨の墓は、東京都文京区の護国寺にある。3基建てられた墓の中で、團伊玖磨は「團家累代墓」に納められており、背面に墓誌が刻まれている。戒名は「鳳響院殿常楽伊玖磨大居士」。
by oku-taka | 2019-02-23 14:54 | 音楽家 | Comments(0)