2019年 02月 17日
梶原一騎(1936~1987)
梶原 一騎(かじわら いっき)
漫画原作者
1936年(昭和11年)~1987年(昭和62年)
1936年(昭和11年)、東京市浅草区(現在の台東区)石浜に生まれる。本名は、高森 朝樹(たかもり あさき)。まもなく両親とともに渋谷区隠田1丁目(現在の神宮前4・6丁目周辺)に移住。幼少時から非常に凶暴で喧嘩っ早く目立ちたがり屋な気質が現れており、1943年(昭和18年)に私立緑岡小学校(後の青山学院初等部)に入学するものの、荒い気質と校風は水と油のようなもので、クラスメートや上級生の子供達とも衝突ばかり起こしていた。この頃すでに体が大きく太り気味だったので、同級生も敵わぬと見たのか上級生とつるんで逆襲してくるため、梶原はいつも生傷が絶えなかった。その上級生を奇襲し血染めにしたことで、母親が学校から呼び出されることになり、梶原はわずか1年生にして退学。家の近くの公立小学校に入れられた。戦後は川崎市、東京都大田区蒲田と転居。蒲田に転居した直後から駅前のマーケットで万引きやかっぱらいを繰り返し、たびたび補導されたが改悛の情なく、弟の真土(後の作家・真樹日佐夫)まで引き込むようになったため、両親の配慮で青梅市の教護院「東京都立誠明学園」に送られ中学相当の3年間を過ごす。在学中に読書に夢中となり、とりわけ『漫画少年』で連載していた山川惣治の『ノックアウトQ』に心酔した。1953年(昭和28年)、東京都立芝商業高等学校に進学するも半年ほどで中退。同年、『少年画報』の懸賞小説に応募した「勝利のかげに」が入選。もともと文学青年で小説家を志していたことから、新作を書いては出版社に持ち込んだものの相手にされなかった。1961年(昭和36年)、『週刊少年マガジン』の編集長の依頼を受け、プロレス漫画『チャンピオン太』で劇画原作家としてデビュー。以降、生活のため漫画の原作を担当する日々を送る。その後、『週刊少年マガジン』の当時の編集長・内田勝と副編集長・宮原照夫が梶原の元を訪れ「梶原さん、マガジンの佐藤紅緑(少年小説の第一人者)になって欲しいんですよ」と口説かれ『巨人の星』の原作を執筆。これがヒットとなったため、以降は漫画・劇画の原作に本腰を入れて取り組むようになった。1967年(昭和42年)、少年キングに『柔道一直線』を連載。この頃になるとテレビが一家に1台は普及するようになり、テレビ文化は大衆化された。梶原作品の多くは、アニメ化または実写化されテレビ放映し人気を博した。またテレビによる宣伝効果で原作の売り上げも伸びた。その後も『あしたのジョー』、『タイガーマスク』、『キックの鬼』、『赤き血のイレブン』とヒット作を連発。1971年(昭和46年)には、旧知の仲だった空手家・大山倍達の半生を描いた伝記的作品『空手バカ一代』を発表。大山倍達率いる極真空手を世に紹介した同作は連載当初から反響が大きく、極真会館には連日50人、100人の入門志願者が押しよせた。1973年(昭和48年)、『愛と誠』が松竹で映画化されたことにより、芸能界に進出。1974年(昭和49年)、同作のテレビドラマ化にあたり、オーディションで選ばれた池上季実子を池上の所属プロから引き抜き、梶原プロダクションを設立。映画界への進出を企て、1975年(昭和50年)に親交のあった東京ムービー社長の藤岡豊、石原プロモーションで映画のプロデュースを行っていた川野泰彦と「三協映画」を設立。「三協」の意味は「三人で協力する」という意味合いで命名された。こうして単なる劇画作家から、プロデューサー、芸能プロダクションのトップというイメージを手に入れ、当時の映画界の四巨星といわれた東映の岡田茂、東宝の松岡功、大映の徳間康快、松竹の奥山融とも一緒に飲み食いする立場となり、芸能界に顔を効かせるようになった。三協映画では、文芸路線、格闘技路線、梶原原作漫画のアニメ化の三つの路線があったが、経営的には格闘技もので上げた収益を文芸もので使い果たすことの繰り返しであった。1979年(昭和54年)、映画製作で知り合った台湾の有名タレント、白冰冰(パイ・ピンピン)と結婚。しかし、梶原による家庭内暴力などを理由として4年後に離婚となった。1981年(昭和56年)、自身の漫画から産まれたキャラクター「タイガーマスク」が現実に新日本プロレスでデビュー。これが契機となって、かねてから縁のあったプロレス界にも深入りするようになる。1983年(昭和58年)5月25日、講談社刊『月刊少年マガジン』副編集長・飯島利和への傷害事件で逮捕。この逮捕により、過去に暴力団員とともに起こした「アントニオ猪木監禁事件」や、赤坂のクラブホステスに対する暴行未遂事件、『プロレスを10倍楽しく見る方法』のゴーストライターのゴジン・カーンから10万円を脅し取った事件などが明るみとなり、その他にもさまざまなスキャンダルがマスメディアを賑わせ、連載中の作品は打ち切り、単行本は絶版となり、名声は地に落ちた。2か月に及ぶ勾留後に保釈され、8月8日、山の上ホテルでステーキと鰻を一緒に食べた直後に壊死性劇症膵臓炎で倒れる。死亡率が100%に近く、死に至る病気であり、長年のアルコール依存や暴飲暴食が祟って胆石を長時間放置し続けたために周辺臓器がすべて病んでおり、わずかな期間に手術を4回重ね、4度目の時に医師団から「あと2時間の命」とまで宣告されていた。長年培ってきた体力等から生還を果たしたが、87キロあった体重も60キロを割っていた。1985年(昭和60年)、東京地裁刑事第二十八部で、懲役2年、執行猶予3年(求刑は懲役2年)の有罪判決を受ける。1985年(昭和60年)、かねてからの念願だった小説家への転身を決意し、真樹日佐夫との合作で正木亜都のペンネームで小説家としての活動を開始。漫画原作者からの引退を宣言し、「梶原一騎引退記念作品」として自伝漫画『男の星座』(作画:原田久仁信)の連載を事件後も唯一連載を打ち切らなかった『漫画ゴラク』で開始。力道山、大山倍達などが実名で登場する中、著者自身実名ではなく「梶一太」と名をつけ、その青春遍歴のドラマを赤裸々に描き、同時にこれまで見られなかったほどの飄々たるユーモアも漂わせながらライフワーク的な作品となるはずであったが、1987年(昭和62年)年明けに体調不良となって入院。1月21日午後12時55分、心不全のため東京女子医大にて死去。享年50。病室には辞世の句「吾が命 珠の如くに慈しみ 天命尽くば 珠と砕けん」が残されていたという。
格闘技やスポーツを題材に、男の闘う姿を描いた話題作を次々に生み出した鬼才・梶原一騎。『巨人の星』の「大リーグボール養成ギプス」や「消える魔球」等の奇抜なアイディア、『あしたのジョー』の劇的なストーリー展開など、型破りで劇的な内容は多くの読者を夢中にさせ、いわゆる「スポ根もの」を見事に確立させた。自身も幼少期に『侍ジャイアンツ』に出てくる「ハイジャンプ魔球」「海老投げハイジャンプ魔球」などを真似して遊んでいた。晩年その豪快な生き方やスキャンダルで話題を呼んだ梶原一騎の墓は、東京都文京区の護国寺にある。右側には墓誌が建ち、左側には辞世の句が彫られた碑が建立されている。戒名は「高照院啓發一騎居士」