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渡辺晋(1927~1987)

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渡辺 晋(わたなべ しん)

実業家
1927年(昭和2年)~1987年(昭和62年)


1927年(昭和2年)、東京府東京市滝野川区(現在の東京都北区)に生まれる。1944年(昭和19年)、早稲田大学専門部法律科に入学。同校在学中、日本銀行に勤務していた実父が公職追放に遭い学費が払えなくなり、月謝や生活費を稼ぐために大学の先輩の薦めでベースを始める。1951年(昭和26年)、松本英彦(テナーサックス)、中村八大(ピアノ)、南広(ドラム)らと『渡辺晋とシックス・ジョーズ』を結成。渡辺自身当初音楽は素人であったが、リーダーとしてベースを担当。人気を集めたものの、最終的に学費が払えず、単位も取れず、1948年(昭和23年)に大学を中退する。やがてジャズミュージシャンの収入の不安定さや仕事のきつさ、福利厚生の薄さ等を目の当たりにしたことなどからプロダクション経営を考え始め、1955年(昭和30年)妻・美佐、松下治夫とともに渡辺プロダクションを設立。当時、芸能人の地方公演はそれぞれの土地の興行師が実権を握り、不明朗なことが多かったことから、タレントを抱えた自分のプロダクションの手で行い、利益と権利を確保しようという狙いがあった。それまではレコード会社の専属抱えだった歌手・作詞家・作曲家を渡辺プロの傘下に集結させ、芸能界初の月給制を導入。さらに、これまでレコード会社で行われていた原盤制作を系列の渡辺音楽出版の手で作らせ、プロダクションに莫大な利益をもたらすようにした。また、当時「電気紙芝居」と呼ばれて軽視されていたテレビに目をつけ、1959年(昭和34年)フジテレビでスタートした『ザ・ヒットパレード』、1961年(昭和36年)日本テレビ『シャボン玉ホリデー』等を主導で企画。ハナ肇とクレージーキャッツ、ザ・ピーナッツらをスターに押し上げた。こうして巨大化した渡辺プロは「ナベプロ帝国」と呼ばれ、渡辺夫妻は芸能界のドンとして君臨するようになった。 一方、面倒見がいいことで知られ、中尾ミエや梓みちよも渡辺の家に住まわせていた時期があった他、学生タレントの学費や家の建築費等も事務所が負担した事もあった。仕事に対しては非常に厳格な事で知られ、重役会議等でもタレントの売り出し方や曲の詞やタイトルの意味、楽曲の曲調、コンセプトにいたるまで厳しく詰問する事が多かった。先見の明も優れており、自身の出自であるジャズだけでなく、当時異端視されていたロカビリー、ソウルミュージック、ゴスペル等を当初から高く評価し、何れも自社の若手歌手に歌唱させ流行させたばかりでなく、その後の長きに渡り定着させる礎を築いた。自身の持説は「自社のタレントには音楽性、芸術性を高めるよりも大衆受けを高めろ」というものであり、自社の歌手やアイドルにも「ステージ上では常に背筋を伸ばし、笑顔を振り撒け」と指図した。また「タレントは偶像であるべし」という思考を持ち、当時喜劇俳優として全盛期であった植木等が恩師と対面する番組に出演するというオファーがあった際は、植木の真面目な地が出て無責任男のイメージが崩れるという理由で固辞させた。また、一部の女性アイドルの恋愛遍歴等も今日と異なり明かさせず、天地真理やキャンディーズ等は、雑誌の対談企画などで処女である事を強調させ、純潔なイメージを死守させた。 政財界にも強力なコネクションを持ち、マスメディアがナベプロを批判することはタブーとなった。しかし、日本テレビ系列で始まったオーディション番組『スター誕生!』によるホリプロや、数年間提携していたジャニーズ事務所、さらに吉本興業、バーニングプロダクションなどの台頭、伊東ゆかり、森進一、木の実ナナ、布施明など人気タレントの相次ぐ独立もあり、1970年代後半から徐々にナベプロ帝国の影響力にかげりが見え始めた。また、1970年(昭和45年)に左の頬に皮膚癌を発症。一度は根治したかに見えたが、1974年(昭和49年)に再発。その後は癌との闘病を強いられることとなり、コバルト治療の副作用で左目の視力を失い、晋自身が「ものを考えられない」とこぼすほどの激しい頭痛にも悩まされた。加えて、ワンマン体制が長期化した事や、時流の変化に自身がついていけなくなり、大里洋吉(後にアミューズを創業)や松下等が運営方針の食い違いで対立し社を去るなど、社内においても人事面等での対立等もあり次第に孤立していった。最晩年はやせ衰え、本来経営者として盛りである五十代であるのにも関わらず、老人のように痛々しく衰弱していた。それでも、病身を押して死の間際までゴルフやパーティーに出席するなどプロダクション経営の一線に立ち続けた。1984年(昭和59年)、回腸癌が判明。小腸の摘出手術を行ったが、以後は入退院を繰り返すようになる。1986年(昭和61年)、芸能産業界初の藍綬褒章を受章。1987年1月31日午前8時20分、急性心不全のため国立病院医療センターにて死去。享年59。没後、勲四等瑞宝章を追贈された。


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戦後の芸能界に独自のプロモーションで一時代を築き、ドンとして君臨した渡辺晋。ハナ肇とクレージーキャッツ、ザ・ピーナッツ、中尾ミエ、沢田研二といったスターを輩出したのみならず、それまでレコード会社の専属だった歌手をプロダクションに所属させて活動させる図式を確立。現代に続く芸能界システムを生み出した改革者であった。それだけに晩年のナベプロ帝国の崩壊は寂しいものがあり、特に独立を発表した森進一を芸能界で居場所を失わせようとする行為には見ていて惨めさを感じた。芸能プロモーターとして高度経済成長期のお茶の間に歌と笑いを届けた渡辺晋の墓は、東京都新宿区の仙寿院にある。当初は福岡県の先祖代々の墓に納められたが、1987年(昭和62年)当地に改葬された。墓には「渡邊家」とあり、左横に墓誌が建つ。戒名は「寂光院恭敬法篤日晋居士」

by oku-taka | 2019-02-16 23:25 | テレビ・ラジオ関係者 | Comments(0)