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渥美清(1928~1996)

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渥美 清(あつみ きよし)

俳優
1928年(昭和3年)~1996年(平成8年)

1928年(昭和3年)、東京府東京市下谷区車坂町(現在の東京都台東区上野七丁目)に生まれる。本名は、田所 康雄(たどころ やすお)。1934年(昭和9年)、板橋尋常小学校に入学するも、1936年(昭和11年)に一家で板橋区志村清水町に転居したことに伴い志村第一尋常小学校へ転入。小学生時代は欠食児童に加え病弱で、小児腎臓炎、小児関節炎、膀胱カタル等の様々な病を患っていた。そのため学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声や落語を聴いて過ごし、覚えた落語を学校で披露すると大変な評判だったという。1940年(昭和15年)、板橋城山高等小学校(板橋区の記録にこのような名前の学校はなく、おそらく志村尋常高等小学校(現在の板橋区立志村小学校)の誤り、もしくは通称と考えられる)に入学。1942年(昭和17年)、巣鴨中学校に入学。まもなく学徒動員で板橋の軍需工場へ駆り出される。また、15~16人の若者を束ねて「フーテン一家」という不良グループの兄貴分になる。1945年(昭和20年)、同校を卒業し中央大学商学部に入学。一方で工員として働きながら、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていた。1946年(昭和21年)、新派の軽演劇の幕引きになる。1948年(昭和23年)、船乗りを志して大学を退学。しかし、母親に猛反対されたため断念。知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入り、喜劇俳優の道を歩むことになった。当初の芸名は、中学生時代に読んだ大衆小説の主人公「渥美悦郎」であったが、無名時代の極初期に参加した公演で、座長が観客に向けて配役紹介を行う際になぜか「悦郎」を忘れてしまい、「清」ととっさに言ったものをそのまま使用した。1950年(昭和25年)、大宮市日活館『阿部定一代記』での通行人役で舞台初出演。その後、赤羽のストリップ劇場「公楽」を経て様々な舞台や劇場などを転々し、1951年(昭和26年)に東京浅草六区のストリップ劇場「百万弗劇場」の専属コメディアンとなる。1953年(昭和28年)にはフランス座へ移籍。この頃のフランス座は、長門勇、東八郎、関敬六など後に第一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。1954年(昭和29年)、フランス座の舞台中に肺結核で倒れ、右肺を切除。サナトリウムで約2年間の療養生活を送る。1955年(昭和30年)、退院し「フランス座」の舞台に復帰するも、右肺を無くしたことでそれまでのドタバタ喜劇ができなくなってしまった。また、復帰後すぐに今度は胃腸を患い、中野の立正佼成会病院に1年近く入院する。1956年(昭和31年)、バラエティ番組『お笑い百貨店』でテレビ初出演。1957年(昭和32年)には日本テレビの連続ドラマ『すいれん夫人とバラ娘』で正式にテレビ界へ進出。同年、日劇バラエティ『ホワイト・クリスマス』の大舞台で八波むと志の代役ながら初主演を果たす。1958年(昭和33年)、柳家金語楼主演の『おトラさん大繁盛』で映画デビュー。1959年(昭和34年)、ストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一、関敬六とスリーポケッツを結成。しかし、3ヵ月後に脱退。1960年(昭和35年)、NHK『お父さんの季節』、NET『大学は花盛り』、KR『あんみつ姫』とテレビドラマに立て続けに出演。1961年(昭和36年)からNHKで放映された『夢であいましょう』、『若い季節』にも出演し、渥美清の名を全国区にした。1962年(昭和37年)、『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を務める。同年、フジテレビ連続ドラマ『大番』でのギューちゃん役が好評を博す。1963年(昭和38年)、野村芳太郎監督映画『拝啓天皇陛下様』に主演。「片仮名しか書けず、軍隊を天国と信じてやまない純朴な男」を演じ、俳優としての名声を得る。その後、東映で喜劇路線を敷こうとした岡田茂プロデューサー(後の東映社長)に引き抜かれ、瀬川昌治監督の『喜劇 急行列車』をはじめとする「喜劇列車シリーズ」に主演。1966年(昭和41年)にはTBSのテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』がスタート。1968年(昭和43年)、フジテレビにてテレビドラマ『男はつらいよ』が放送開始。最終回の「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」と言う結末に視聴者からの抗議が殺到し、翌年に罪滅ぼしの意味も含めて松竹で映画を製作。これが予想に反し大ヒットとなり、以降シリーズ化となった。以後、山田洋次監督の映画『男はつらいよ』シリーズにおいて主演の車寅次郎(フーテンの寅)役を27年間48作に渡って演じ、映画のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載るなどの記録を成し遂げた。1972年(昭和47年)、渥美プロを設立。松竹と共同で映画『あゝ声なき友』を自身主演で製作公開する。1977年(昭和52年)、テレビ朝日製作の土曜ワイド劇場『田舎刑事 時間(とき)よとまれ』にて久しぶりにテレビドラマの主演を務める。同作品はのちに長く続く人気番組土曜ワイド劇場の記念すべき第1回作品であると同時に、第32回文化庁芸術祭のテレビ部門ドラマ部の優秀作品にも選出された。1979年(昭和54年)、NHKで放映されたテレビドラマ『幾山河は越えたれど〜昭和のこころ 古賀政男〜』で、作曲家・古賀政男の生涯を鮮烈に演じ高い評価を得る。しかし、映画『男はつらいよ』シリーズの大成功以降は「渥美清」=「寅さん」の図式が固まってしまい、どの作品も『男はつらいよ』シリーズ程の成功は収める事が出来ず、渥美自身新たな役柄の幅を広げるには至らなかった。また、この時期に今村昌平監督が『復讐するは我にあり』の主役・榎津巌役をオファーしたが、「寅さんのイメージを裏切りたくない」との理由で断っている。当初はイメージの固定を避けるために積極的に他作品に出演していたが、1980年代以降になると当時の松竹の思惑や渥美自身も他作品への出演に消極的になっていたこともあって、『男はつらいよ』シリーズ以外の主演は無くなっていく。1988年(昭和63年)、紫綬褒章を受章。その後は主演以外での参加も次第に減っていき、1989年(平成元年)に公開された『男はつらいよ 寅次郎の休日』以降は病気になった渥美に配慮し、立って演じるシーンは少なくされた。本作から甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られ、年2本作っていたシリーズを1本に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らしている。1991年(平成3年)、肝臓癌が見つかり、翌年には肺に転移しているのが判明。晩年は立っていることもままならず、撮影の合間は寅さんのトランクを椅子代わりにして座っていることが多かった。山田洋次には「スタッフに挨拶されて、それに笑顔で答えることさえ辛いんです。スタッフや見物の方への挨拶を省略していただきたい」と語っていたが、事情を知らない映画撮影の見物客は、渥美に声をかけてもまったく反応してもらえなかったことから「愛想が悪い」との理由で渥美を批判することもあった。47作目『男はつらいよ 拝啓車寅次郎様』からは主治医からも出演は不可能だと言われていたが何とか出演。48作目『男はつらいよ 寅次郎紅の花』に出演できたのは奇跡に近いとのことであった。1996年(平成8年)7月、体調を崩して同月末に手術を受けたものの、癌の転移が広がり手遅れの状態だった。8月4日午後5時10分、転移性肺癌のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去。享年68。「俺のやせ細った死に顔を他人に見せたくない。骨にしてから世間に知らせてほしい」という渥美の遺言により、家族だけで密葬を行い、秋から制作が決定していた第49作目の撮影現場には6日夕方、訃報は8月7日に松竹から公表された。没後、「『男はつらいよ』シリーズを通じて人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えた」ことで日本政府から国民栄誉賞が贈られた。


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今年、22年ぶりに新作が公開されることが発表された『男はつらいよ』。この映画の主人公・車寅次郎役を27年間にわたって演じたのが渥美清である。風の吹くまま気の向くままに旅をし、粗雑と本能的な性格で人々を振り回し、美人と義理人情に弱い男を見事に演じ、作品を国民的映画にまで押し上げた。その高い演技力のせいで多くの国民は「渥美清=寅さん」という実像と虚像をオーバーラップさせて捉えるようになり、彼の死は「寅さんの死」として報道されていた。当の本人は「死んでいくのは田所康雄であって、渥美清でも寅でもない。絶対に寅の墓は作るな」という遺言を残し、この世を去っていった。渥美清の墓は、東京都新宿区の源慶寺にある。墓には「田所家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2019-02-16 15:19 | 俳優・女優 | Comments(0)