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バッキー白片(1912~1994)

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バッキー白片(ばっきー しらかた)

ハワイアン奏者
1912年(明治45年)~1994年(平成6年)


1912年(明治45年)、日系2世の子供としてアメリカ合衆国ハワイ州オアフ島ホノルルに生まれる。本名は、白片 力(しらかた つとむ)。父は山口県からハワイに渡った移民1世で、建築業を営んでいた。小学校時代はウクレレに親しみ、中学はブラスバンド部に所属しギターとドラムを学ぶ。マッキンレー高校在学中には自宅でスティール・ギターを演奏した。ハワイ大学医学部へ進んでからも、ホノルル・シンフォニー・オーケストラに加入するなどハワイアン音楽に傾倒。1933年(昭和8年)、ハワイ大学進学のためにやってきた灰田有紀彦のインタビュー記事を地元紙で読んで知遇を求め、日本行きを相談。大学の最終学年にいるのだから卒業後に来日するよう勧められたが気持ちを抑えきれず、アロハ・ハワイアントリオを結成。大学を1年休学して来日し、横浜や浅草などで公演を行ったところ好評となり、「アカカの滝」「フイ・エ」の2曲をレコーディングすることになった。この頃、小さな体でありながら勢いがいい所から「豆鉄砲」という意味の「バックショット」をもじり、バッキーと呼ばれるようになる。1935年(昭和10年)、同大学を卒業。再び来日し、関西を拠点に活動。また、それまでアコースティックのスティール・ギターしか入ってきていなかった日本に初めてスチールギターを紹介した。1937年(昭和12年)、日本に帰化し、東京に居住。東松二郎、佐野鋤、奥田宗宏らのバンドを経て、アロハ・ハワイアンズを結成した。1939年(昭和14年)、当時すでに人気歌手だったディック・ミネにその才能を認められ、ハワイアン音楽「竹の橋の下」「フラの天国」を発売。人気を博し、翌年には日本青年館で第1回アロハ・ハワイアンズ発表会が行われた。しかし、1941年(昭和16年)に太平洋戦争が始まったためバンドは一時解散。自身はNHK東京放送管弦楽団に入ってギターとドラムを担当し、1942年(昭和17年)には皇軍慰問芸術団のメンバーとして佐野らと南方戦線慰問に参加した。戦時中はハワイアン音楽の演奏禁止により不遇の時代を過ごす。また、敵性語排除の風潮によって本名での活動を余儀なくされた。その後、ディック・ミネのバックバンドの一員として終戦を迎えた。戦後もしばらくミネのバンドを続けた後、1947年(昭和22年)にバッキー白片とアロハ・ハワイアンズを結成。灰田有紀彦・勝彦兄弟、大橋節夫らと共にハワイアン音楽の全盛期を築いた。スチールギターの演奏の他、ダンス・オーケストラのドラマーとしても活躍。また和田弘、エセル中田ら多くの新人を育てた。1959年(昭和34年)、「南国の夜」がヒット。その後、作曲活動も行い、石原裕次郎の「俺はお前に弱いんだ」、「ささやきのタンゴ」、「さすらい」、「白樺の湖」などを作曲した。1986年(昭和61年)、ハワイ音楽と文化を日本に広めた功績で、ハワイ州知事より表彰を受ける。1988年(昭和63年)、勲四等瑞宝章を受章。1993年(平成5年)、レコーディング最中に体調不良を訴え入院。闘病生活を送っていたが、1994年(平成6年)7月13日、心不全で死去。享年82。


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日本にハワイアンを根付かせた第一人者・バッキー白片。日本に初めてスチールギターを紹介し、1960年代のハワイアンブームを大橋節夫と共に率いた。音楽のみならず、バッキーはダジャレも大好きで、常に人々を笑顔にすることにこだわり続けた。そうした人柄と才能に惹かれ多くの人が彼を慕い、和田弘、エセル中田、日野てる子といった後進も育っていった。両親の生まれた国で大きな足跡を残したバッキー白片の墓は、東京都新宿区の来迎寺にある。墓には「白片家之墓」とあり、左側に墓誌が建つ。戒名は「白光院照誉慈愍念道居士」。

by oku-taka | 2019-02-10 00:13 | 音楽家 | Comments(0)