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藤間紫(1923~2009)

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藤間 紫(ふじま むらさき)

舞踊家・女優
1923年(大正12年)~2009年(平成21年)


1923年(大正12年)、東京府東京市本郷区根津宮永町(現在の東京都文京区根津)に生まれる。本名は、本名は喜熨斗 綾子(きのし あやこ)。旧姓は、河野→藤間。父が日本医科大学創設者で、6代目尾上菊五郎の主治医でもあったことから、6歳の頃に7代目松本幸四郎の紹介で藤間章吉から日本舞踊を習う。1935年(昭和10年)、藤間流6代目宗家・藤間勘十郎の踊りを見て憧れ、川尻清譚の紹介で勘十郎門下に転じる。1941年(昭和16年)名取となり、藤間紫を名乗る。同年、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に講師として出講。1944年(昭和19年)、6代目藤間勘十郎と24歳差を乗り越え結婚。戦後は長谷川一夫の誘いにより小夜福子の代役で初めて女優として舞台に立ち、1948年(昭和23年)には初のリサイタル・舞踊劇『淀君』が好評を博した。その後、同作を観た辰巳柳太郎の口利きで新国劇『野口英世』に出演。1949年(昭和24年)には島耕二監督『グッドバイ』で映画デビューし、以来、映画・テレビ・舞台と多くの作品に出演。女優業で得た収入で藤間流の復興に尽力し、宗家を支えた。一方で、昭和30年代に帝国劇場で披露した『椎葉の里』、明治座での『青銅のキリスト』など、舞踊劇の創作にも注力。新劇の村山知義に指導を受け、主宰する藤紫会や火の木の会の公演では村山の脚本による作品なども上演した。夫との間には俳優の藤間文彦、7代目藤間勘十郎(3代目藤間勘祖)の一男一女をもうけたが、1966年(昭和41年)勘十郎の踊りの弟子であった歌舞伎俳優の三代目市川猿之助(後の二代目市川猿翁)と不倫。当時、猿之助は元宝塚歌劇団雪組のトップ娘役で女優の浜木綿子と結婚(1968年に正式離婚)しており、浜との間に一人息子である香川照之(のちの九代目市川中車)を儲けていたが、家庭を捨て、藤間と駆け落ち同然の暮らしを始める。この二人の同棲生活は35年にも及び、1960年代から藤間は猿之助の公演活動を支えた。長く公私ともに実質的なパートナーとして生活をともにし、「スーパー歌舞伎」のプロデューサーも務めた。1985年(昭和60年)、藤間勘十郎側から財産分与と慰謝料3億円を請求する離婚訴訟を起こされる。これをきっかけに離婚・財産問題でもめ、勘十郎側から長男が辰巳柳太郎の子供であると主張されるなど、”藤間流スキャンダル”としてマスコミを賑わせた。1987年(昭和62年)、宗家藤間流を離れ、紫派藤間流を旗揚げし独立。毎年東京と大阪にて舞踊会を開催するようになる。1994年(平成6年)、勲四等宝冠章を受章。1995年(平成7年)、猿之助の演出で舞台『西太后』に主演。同作での女帝ぶりは高く評価され、晩年の代表作となった。2000年(平成12年)、猿之助と正式に結婚。2003年(平成15年)、猿之助が脳梗塞を発症。その後、肝機能障害を患い、夫・猿之助を献身的に支える一方、猿之助一門の指導をしながら女優として活動した。2007年(平成19年)、食道静脈瘤が発見され、手術で克服。しかし、2009年(平成21年)2月中旬に体調不良を訴え、17日に入院。3月27日午後5時26分、肝硬変による肝不全のため東京都文京区の日本医科大付属病院で死去。享年85。


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20歳という若さで名取りとなり、天才少女の名をほしいままにした舞踊家・藤間紫。それまでの風習にとらわれず、舞踊に演劇を取り入れるなど革新的なことにも挑戦し、常に高みのある舞台の創作を目指し続けた。その原動力となったのは、舞踊に対する情熱と男への愛だったに違いない。藤間勘十郎と市川猿之助という一流の芸人に惹かれた彼女は、藤間流存亡の危機を救うべく演劇界に身を投じて資金を稼ぎ、晩年は不自由な体となった猿之助を献身的に介護した。あるときは「邪道」と罵られ、あるときは「不貞」と蔑まれながらも、常に前を向いて己の信じる道を歩み続けた。晩年、インタビュー番組で記者からの質問に「女の幸せは今なんです。踊りも何も捨ててもいい。一生看護してもいい」と語った藤間紫。愛に翻弄され続けた舞踊家の墓は、東京都台東区の寛永寺第二霊園にある。墓には「喜熨斗累世墓」とあり、墓誌はない。戒名は「優照院賢徳紫芳大姉」。

by oku-taka | 2019-02-09 22:43 | 芸術家 | Comments(0)