人気ブログランキング | 話題のタグを見る

原ひさ子(1909~2005)

原ひさ子(1909~2005)_f0368298_16402260.jpg

原 ひさ子(はら ひさこ)

女優
1909年(明治42年)~2005年(平成17年)


1909年(明治42年)、静岡県静岡市葵区に生まれる。本名は、石島(旧姓森川) 久(いしじま ひさ)。3歳で父を亡くし、銀行員だった長兄に育てられる。その後、不二高等女学校(現在の静岡雙葉高等学校)を卒業すると同時に上京し、伯父夫婦の養子となった。伯父は会社のエンジニアだったが、東京大学の近くで下宿と喫茶店も経営していた。原は家業を手伝ったり、長唄や生け花を習うなど花嫁修業をしていた。1933年(昭和8年)、母親に「これからの女性は手に職をつけなければ」と促され、新聞の広告で見た前進座の座員募集に応募し合格。当時は女優になろうとする気はなく、裏方にでもなれればいいと思っていたが、女優募集の試験であったため、周りには綺麗な人しかいなく、逃げだしたい気持ちになったという。新橋演舞場の『牛を喰う』の町娘役で初舞台を踏み、その後「原緋紗子」の芸名で歌舞伎や股旅物、現代劇などの舞台に立った。特に、現代劇『石川啄木』では啄木の妻役で出演し、好評を博して当り役とした。1935年(昭和10年)、『街の入墨者』で映画に初出演。1938年(昭和13年)、前進座所属の俳優・石島房太郎と結婚。1944年(昭和19年)、夫婦揃って東宝の専属となり、多くの映画に出演。しかし、東宝争議で契約破棄を告げられたため、同じく契約破棄された人たちと東宝演技者集団(のちに東宝映画俳優協会)を結成し、独立プロの映画を中心に出演した。1952年(昭和27年)、『高原の悲歌』出演を境に芸名を「原ひさ子」と改名した。1955年(昭和30年)以降は日活映画を中心に活躍。1961年(昭和36年)、イブ・モンタン主演の米映画『青い目の蝶々さん』にメイド役で出演。同年、NHKの教育番組『良太の村』でおばあちゃん役を演じる。以後、おばあちゃん役の名脇役として数多くの映画・テレビドラマにおばあちゃん役で出演。映画『悪魔の手毬唄』では探偵の金田一耕助に事件解決の手がかりとなる手毬唄を教えるおばあちゃんを、テレビドラマ『ふぞろいの林檎たち』では定食屋のおばあちゃんを演じるなど、150cmの小柄な体つき・か細く愛らしい声・ほのぼのとした温和な雰囲気で親しまれた。また、70歳を過ぎてから小堺一機が司会を務めるトークバラエティ番組『ライオンのいただきます』に出演。ほのぼのとした雰囲気でバラエティ番組でも活躍した。1989年(平成元年)、芸団協芸能功労者賞を受賞。1999年(平成11年)にはアメリカ紙ニューヨーク・タイムズに「日本の最高齢女優」として紹介された。私生活では、65歳で小唄、70歳で俳句を始め、2000年(平成12年)に90歳で初の著書『ばばさまの俳句は日記つれづれに』を出版した。2005年(平成17年)12月4日午後9時32分、家族と夕食を終えた後に意識を失い、東京都内の病院へ搬送中の救急車の中で心不全のため死去。享年96。


原ひさ子(1909~2005)_f0368298_15595886.jpg

原ひさ子(1909~2005)_f0368298_15595778.jpg

「日本のおばあちゃん」として親しまれた原ひさ子。94歳まで女優として活躍し、現役最高齢女優としての記録は未だに破られていない。たくさんいるおばあちゃん女優の中でも柔和で優しいおばあちゃん役を多く演じ、そのおっとりとした喋りと笑顔はバラエティー番組でも愛された。70歳ではじめた俳句もなかなか味わい深い作品が多く、中でも「とりどりの 落ち葉楽しき 散歩道」は彼女の人柄がよく表れていてお気に入りの一句だ。明治・大正・昭和・平成を穏やかに生きた原ひさ子の墓は、東京都台東区の金嶺寺にある。墓には「石島家之墓」とあり、左側面に墓誌が刻む。戒名は「慈光院恵照妙久大姉」

by oku-taka | 2019-02-09 16:37 | 俳優・女優 | Comments(0)