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宮口精二(1913~1985)

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宮口 精二(みやぐち せいじ)

俳優
1913年(大正2年)~1985年(昭和60年)

1913年(大正2年)、東京府東京市本所区緑町(現在の東京都墨田区緑)に生まれる。本名は、宮口 精次。中和尋常小学校を経て東京市立第二中学校に入学するが、家庭の経済的事情から同校の夜学である上野夜間中学に転じ、同時に校長の紹介で福徳生命(現在のマニュライフ生命保険)東京支店に給仕として入社する。1931年(昭和6年)の卒業後も同社に勤務していたが、芝居好きの会社の同僚の誘いで歌舞伎や新劇を観るようになり、「同じ貧乏をするなら、自分の好きな道で」とのことで役者を志す。1933年(昭和8年)、友田恭助・田村秋子夫妻らが設立した築地座の研究生募集に応じて入団。同年、『アルトハイデルベルヒ』の通行人の学生役で初舞台を踏む。1935年(昭和10年)、久保田万太郎作『釣堀にて』に先輩の中村伸郎の代役として、一言だが初めて台詞のある役で出演する。築地座解散後は、1937年(昭和12年)の文学座結成に杉村春子らと共に参加。1944年(昭和19年)、森本薫作『怒涛』での演技で注目される。同年、黒澤明監督の『續姿三四郎』に出演して映画デビューを果たす。戦後も文学座の主力として舞台に立ち、主に下町ものの作品で頑固だが人情深い職人役などを得意とした。1949年(昭和24年)、『女の一生』『あきくさばなし』『雲の涯』の演技で第1回毎日演劇賞を受賞。1951年(昭和26年)、木下惠介監督『善魔』に出演。三國連太郎の上司役が好評となり、以降も積極的に映画へ出演。小津安二郎監督『麦秋』(1951年)、『早春』(1956年)、今井正監督『にごりえ』(1953年)、市川崑監督『破戒』(1962年)、小林正樹監督『人間の条件』(1959年)、稲垣浩監督『無法松の一生』(1958年)、成瀬巳喜男監督『あらくれ』(1957年)、吉村公三郎監督『夜の蝶』(1957年)、野村芳太郎監督『張込み』(1958年)、黒澤明監督『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『蜘蛛巣城』(1957年)等、戦後日本映画を代表する監督に次々と起用されるようになった。なかでも、『七人の侍』では痩身で寡黙だが凄腕の剣客・久蔵、『張込み』では執念深い老刑事を演じて好演技を見せた。1965年(昭和40年)、文学座を退団。フリーに転じたが、同年5月に東宝演劇部と1年ごとの契約で入団。『霊界様と人間さま』『放浪記』などの東宝現代劇に出演し、堅実な脇役として活躍する。また、『青春とはなんだ』(1965年)に始まる一連の青春シリーズや『東京バイパス指令』(1968年)など、東宝制作のテレビドラマにも多く出演した。1970年(昭和45年)、個人の季刊雑誌『俳優館』を主宰。「役者が作る役者の雑誌」をコンセプトに、亡くなる直前まで発刊された。また、アマチュア野球の審判としても知られ、後楽園球場や大阪スタヂアムで球審を務めた。1983年(昭和58年)、紫綬褒章を受章。1985年(昭和60年)4月12日午後11時30分、肺がんのため国立東京第二病院で死去。享年71。


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宮口精二(1913~1985)_f0368298_11083542.jpg

味わい深い演技といぶし銀の存在感で戦後の演劇界を彩った往年の名バイプレイヤー・宮口精二。下町の芝居を得意とし、舞台では人情深い役どころを多く演じた。映画では打って変わって冷酷な役が多かったが、『七人の侍』で演じた久蔵はクールな性格ながら一番腕の立つ剣豪ということで映画ファンを魅了した。晩年は雑誌「俳優館」の編集に力を注ぎ、役者のための役者の本を作り続けた。誰よりも「俳優」という職業に誇りを持ち、愛し続けた宮口精二の墓は、東京都墨田区の瑞泉寺にある。細長い形状の墓には「俳優 宮口精二」とあり、右横に略歴が刻まれた墓誌が建つ。戒名は「演厚院章誉棈人居士」

by oku-taka | 2019-02-09 15:10 | 俳優・女優 | Comments(0)