人気ブログランキング | 話題のタグを見る

三木のり平(1924~1999)

三木のり平(1924~1999)_f0368298_14205903.jpg

三木 のり平(みき のりへい)

俳優・演出家
1924年(大正13年)~1999年(平成11年)


1924年(大正13年)、東京府東京市日本橋区浜町(現在の東京都中央区日本橋浜町)に生まれる。本名は、田沼 則子(たぬま ただし)。幼少期から映画、歌舞伎、新派、喜劇、オペレッタと、様々な舞台を身近に見て育つ。また、絵に興味を持ち、1942年(昭和17年)日本大学法文学部芸術学科に入学。美術学生となるが、学生劇団の舞台美術を引き受けたことがきっかけで「東京弁をしゃべれる役者が足りないから」と誘われ役者の道に進む。1947年(昭和22年)、同大学を卒業。青山杉作研究所、俳優座を経て、帝劇で『真夏の夜の夢』に端役で出演していたが、手に持った蝋燭の火が自らの衣装に燃え移り芝居を混乱させたために青山圭男から新劇の世界を追放され、三木鶏郎グループに入る。当初は本名で舞台に上がっていたが、三木鶏郎の提案により芸名を「三木則子」とする。しかし、プログラムの印刷業者が則子の「子」の字を「平」と読み間違えたため、プログラムには「三木則平」と表記される。その後、小野田勇から「『則平』は固いから『則』の字は平仮名がいいよ」と助言されたことを受け、正式に「三木のり平」を芸名とした。同年、NHKラジオの『日曜娯楽版』に出演。世相や混迷する政治をコントと音楽で鋭く風刺して人気を呼んだ。1950年(昭和25年)、清水金一主演の喜劇『無敵競輪王』で映画デビュー。1954年(昭和29年)、森繁久彌、三木鮎郎らと虻鉢座を結成し、注目を浴びる。1956年(昭和31年)、東宝と専属契約。『のり平の三等亭主』で映画初主演を果たす。以後、森繁と共演した『社長シリーズ』や、森繁、伴淳三郎、フランキー堺と共演した『駅前シリーズ』などで人気を博した。特に『社長シリーズ』での「パァーッといきましょう」は流行語にもなった。1957年(昭和32年)、有島一郎とのコンビによる「東宝ミュージカルズ」で活躍。その演技力で森繁、有島と並ぶ喜劇役者としての地位を確立し、「スターは三船(敏郎)、役者は(三木)のり平」と評された。1958年(昭和33年)、桃屋のアニメーションCMのキャラクターのモデルおよび声優を担当。以後、『カライ盗ルパン篇』まで40年間放送され、お茶の間に親しまれた。その後フリーとなり、映画、テレビ、舞台にユーモアとペーソスのある役どころで活躍。アドリブのうまさ、軽妙洒脱な芸に定評があった。また、演出家としての顔も持ち、大衆演劇を多く手がけた。1981年(昭和56年)からは森光子主演の舞台『放浪記』の演出を担当。同作の演出に対して菊田一夫演劇賞(平成2年度)、読売演劇大賞最優秀演出家賞 (平成6年度)など高い評価を受けた。1986年(昭和61年)、紫綬褒章を受章。1996年(平成8年)、勲四等旭日章を受章。1999年(平成11年)、体調不良を訴え入院した病院の検査で肝障害が発覚。点滴や投薬治療を一切拒否し、1月25日午前8時46分、肝腫瘍のため東京都新宿区の林外科病院で死去。享年76。


三木のり平(1924~1999)_f0368298_14210005.jpg

三木のり平(1924~1999)_f0368298_14210011.jpg

昭和の喜劇を代表する役者・三木のり平。作品ごとに独特の軽妙洒脱な演技を披露し、戦後の軽演劇を支えた。特に『社長シリーズ』で見せたお調子者の宴会部長とユーモアあふれる宴会芸は抱腹絶倒の名演技であったが、のり平没後に刊行された聞き書き本『のり平のパーッといきましょう』に「社長シリーズ?あんなの実にくだらない映画ですからね」「糞だよ、ウンコ。作品なんてもんじゃないよ。だから見たことない」「芝居もクソもない、おもしろくもなんともないよ」とコケおろしていたのには少々寂しさを感じた。やはり青山杉作や千田是也といった舞台人と演劇を創り上げた人だけに、それなりのプライドがあったのかもしれない。晩年は演出家としての活躍が目立ち、映画でも重厚な役を任されることが多かった三木のり平。お墓は東京都台東区の清光寺にある。洋形の墓には「田沼家」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は「映照院演誉喜楽則道居士」。

by oku-taka | 2019-02-03 14:50 | 俳優・女優 | Comments(0)