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鮎川信夫(1920~1986)

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鮎川 信夫(あゆかわ のぶお)

詩人
1920年(大正9年)~1986年(昭和61年)


1920年(大正9年)、東京市小石川(現在の文京区)高田豊川町に生まれる。本名は、上村 隆一(うえむら りゅういち)。父・上村藤若は「帝国文化協会」主催の出版者で農本主義的なナショナリストであった。世間的には温厚な人格者でありながら、家庭内ではすこぶる冷淡な人間であったため、鮎川にとってのモダニズムは「父親イメージへの反逆から始まった」と後に語っている。16歳で詩作を始め、1937年(昭和12年)筆名「鮎川信夫」で雑誌『若草』へ「寒帯」を投稿。同年、神戸で中桐雅夫が刊行していた同人誌『LUNA』に加入(筆名・伊原隆夫)。その後、詩誌『LE BAL』へ投稿。1938年(昭和13年)11月には森川義信らと第一次『荒地』を企画し、翌年3月から2年間に6冊を刊行する。1942年(昭和17年)、早稲田大学文学部英文科3年次在学中に卒論『T・S・エリオット』を提出。審査に当たった教授が舌を巻くほど優れた出来だったというが、軍事教練の出席時間不足で卒業を認められずに早稲田大学を中退。同年10月に青山の近衛歩兵第4連隊に入隊した。1943年(昭和18年)3月、遺書のつもりで三好豊一郎編集の詩誌『故園』に「橋上の人」を書き残す。同年5月、スマトラ島に出征したが、マラリアや結核を発症し、1944年(昭和19年)5月に傷病者として帰還。1945年(昭和20年)2月、福井県の傷痍軍人療養所で午後9時の消灯後、家族への手紙を書くふりをしながら、わずかな電灯の明かりをたよりに「戦中日記」を書く。1947年(昭和22年)、田村隆一らと詩誌『荒地』を主催し、「死んだ男」「繋船ホテルの朝の歌」「アメリカ」「姉さんごめんよ」などの代表作品と共に「Xへの献辞」「現代詩とは何か」などの詩論を発表。特に「死んだ男」は戦後詩の出発点と称され、詩壇における位置を確定した。1951年(昭和26年)、アンソロジー『荒地詩集』を刊行。巻頭に「現代は荒地である」という有名なマニフェストを布置し、戦後現代詩を作品と詩論の両面にわたってリードする地位を決定的なものとした。一方で、二宮佳景の名でエラリー・クイーン『オランダ靴の秘密』を皮きりに、コナン・ドイルなどの推理小説やウィリアム・S・バロウズの翻訳を手掛けるようになる。1978年(昭和53年)、詩集『宿恋行』を刊行。自己の変容を凝視した傑作と評された。晩年は詩作よりも批評に重きを置き、そこでも高く評価された。一方、私生活に関して完全な秘密主義を貫いており、連絡先は母の家、晩年は甥の家にする徹底ぶりだった。1986年(昭和61年)10月17日、世田谷区成城の甥の家に郵便物を受け取りに行き、甥の家族とスーパーマリオブラザーズに興じている最中に脳出血で倒れ、午後10時40分に搬送先の杏林大学医学部付属病院で死去。享年66。


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戦後の詩壇をリードし続けた鮎川信夫。晩年は評論活動に力を注ぎ、文学界に大きな足跡を残した。私生活をいっさい明かさず、英文学者の最所フミが鮎川の葬儀の際に妻として名乗り出て皆を驚かせたというのが、実にミステリアスな鮎川信夫らしい。甥の家族と一緒にコンピューターゲームで遊んでいた最中に還らぬ人となった鮎川信夫の墓は、東京都港区の善福寺にある。墓には「鮎川信夫之墓」とあり、右側面に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2019-02-02 23:38 | 文学者 | Comments(0)