2019年 01月 27日
羽仁未央(1964~2014)
羽仁 未央(はに みお)
エッセイスト・メディアプロデューサー
1964年(昭和39年)~2014年(平成26年)
1964年(昭和39年)、映画監督の羽仁進と女優の左幸子の長女として東京都に生まれる。幼い頃から海外生活が長く、5歳から7歳をパリで過ごす。小学4年生の時、学校教育を否定して話題になる。それ以後は学校に通わず、学校教育も受けず、家で教育を受けるようになった。1973年(昭和48年)、羽仁みお名義で『MIOと11ぴきのネコ』を発表。同年、父親の製作したテレビドキュメンタリー番組動物家族の撮影に同行。11歳までケニアで過ごす。このとき、未央の世話をしていた左の実妹・額村喜美子も同行し、父と不倫関係に陥る。1977年(昭和52年)、娘の教育問題などを理由に両親が離婚。未央は父側に付いた。羽仁はその4ヶ月後、喜美子と再婚。帰国後はコラムや映画の批評、エッセイ『未央のびっくり箱』『ネコの父へ人間のミオより』 等を執筆。1982年(昭和57年)にはナンセンスSFコメディ『ヘリウッド』で映画にも出演した。1987年(昭和62年)、香港映画への興味から香港に移住。香港では映画会社と契約し、1991年(平成2年)には香港映画『妖獣大戦』で監督と脚本を手掛けた。 その後独立し、アジア中心のドキュメンタリー番組などの制作を行う。1998年(平成10年)、香港が中国返還される頃にわたり、返還期の香港についてテレビ朝日系列のニュース番組『ニュースステーション』にてシリーズでレポート。しばらく、香港、シンガポール、日本を行き来しつつ活動していた。1999年(平成11年)、NPOのオルタナティブ大学であるシューレ大学のアドバイザーに就任。2001年(平成13年)、実母の左幸子が死去。両親の離婚後は彼女と交流が無かったことを理由に、父親の羽仁進と継母で幸子の妹の喜美子と共に葬儀を欠席した。2006年(平成18年)、荒戸映画事務所が製作した「ゲルマニウムの夜」(原作花村萬月、監督大森立嗣)にて、スーパーバイザーを務める。晩年はインターネットを主軸に活躍し、アジアチャンネル、MonjaKids.comなどのコミュニティーサイトを手掛け、香港に会社を持ち、日本と香港で主な活動を行っていた。2014年(平成26年)11月18日午前0時3分、肝不全のため東京都文京区の病院で死去。享年50。
小学4年生で登校拒否を明言し、ホームスクーラーの先駆け的存在となった羽仁未央。まだ幼い彼女の宣言は大きな話題となり、たちまちマスコミのネタになった。それに乗せられ、コラム、映画批評、エッセイ、テレビタレントと活動。父が映画監督、母が女優ということもあって自由奔放に発言する羽仁未央の存在は「こまっしゃくれた子供」というイメージが強く残った。やがて大人になり、活動拠点を香港に移すと、あれだけ持ち上げていたマスコミが潮の引くように彼女から離れ、徐々に忘れられた存在となっていった。2014年、50歳という若さで亡くなった際も、その訃報の扱いは大変小さく、テレビでも報道はされなかった。幼くして時の人となり、ひっそりと世を去った羽仁未央の墓は、東京都豊島区の雑司が谷霊園にある。彼女の遺骨は祖父母である「羽仁五郎・説子」の墓に埋葬され、背面には墓誌が刻まれている。