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羽仁五郎(1901~1983)

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羽仁 五郎(はに ごろう)

歴史学者
1901年(明治34年)~1983年(昭和58年)

1901年(明治34年)、群馬県桐生市に生まれる。旧姓は森。生家は地元の有力な織物仲買商であり、父の森宗作は第四十銀行の創立者で初代頭取、舘林貯蓄銀行頭取などを務めた。1913年(大正2年)、桐生北尋常小学校を卒業。同年に上京して、東京府立第四中学校に入学。厳しい規則と詰め込み主義の学校を批判し、停学処分を受けるなどした。1918年(大正7年)、旧制第一高等学校独法科に入学。1921年(大正10年)、東京帝国大学法学部に入学。しかし、3か月で中退し、ドイツで歴史哲学を学ぶため出国。1922年(大正11年)、ハイデルベルク大学哲学科でリッケルトに歴史哲学を学ぶ。留学中、糸井靖之・大内兵衛・三木清と交流し、現代史・唯物史観の研究を開始。「すべての歴史は現代の歴史である」というベネデット・クローチェの歴史哲学を知り、生涯在野の哲学者であったクローチェの影響を色濃く受けた。1924年(大正13年)、帰国。東京帝国大学文学部史学科に再入学した。1926年(大正15年)、羽仁吉一・もと子夫妻の長女説子と結婚。「彼女が独立の女性として成長することを期待して」婿入りし、森姓から羽仁姓となる。1927年(昭和2年)、東京帝国大学を卒業。同大史料編纂所に嘱託として勤務。1928年(昭和3年)、日本最初の普通選挙で応援演説をしたことで問題となり辞職。同年、三木清らとの討論により歴史問題と唯物史観の構想に開眼。三木清・小林勇と雑誌『新興科学の旗のもとに』を創刊した。1929年(昭和4年)、プロレタリア科学研究所の創設に参加。反ファシズムの立場をとり、以降マルクス主義歴史理論の建設に努める。その後、『転形期の歴史学』(1929年)、『歴史学批判序説』(1932年)といった論集を発表し、日本で初めて唯物史観を基礎とするマルクス主義歴史理論体系を樹立した。1932年(昭和7年)、野呂栄太郎らと『日本資本主義発達史講座』を刊行。唯物史観の立場から明治維新史を執筆した。同年、『史学雑誌』に「東洋における資本主義の形成」を発表。明治維新の世界史的位置づけを行い、その原動力が農民や町人の闘いにあること、明治維新の本質が民主主義革命の未完成にあり、それゆえに専制的な天皇制が成立したことを、豊富な根本史料を駆使しながら明らかにした。1933年(昭和8年)9月11日、治安維持法容疑で検束。留置中に日本大学教授を辞職。強制的に虚偽の「手記」を書かされた上で、12月末に釈放。その後、『ミケルアンヂェロ』その他の著述で軍国主義に抵抗し、多くの知識人の共感を得た。中でも『クロォチェ』論は特攻隊員の上原良司の愛読書となり遺本ともなった。その後も反戦・反ファシズムの立場から思想的抵抗を繰り広げたが、1945年(昭和20年)3月10日に北京で憲兵に逮捕される。東京に身柄を移され、敗戦を警視庁の留置場で迎える。10月4日、治安維持法廃止を受けて釈放。戦後は文明批評家、社会運動家として多面的な活動を展開。マルクス主義の観点から明治維新やルネッサンスの原因は農民一揆にあると主張した。1947年(昭和22年)、参議院議員に当選。破防法反対、国立国会図書館の設立に尽力するなど、9年間2期にわたり革新系議員として活動した。国立国会図書館法前文の「真理がわれらを自由にする」という文言は、羽仁がドイツ留学中に見た大学の銘文を基に入れたもので、新約聖書のヨハネによる福音書に由来している。また、1949年(昭和24年)から3年間学術会議会員として「学問思想の自由の保障の委員会」の委員長を務めた。社会運動家としては、1966年(昭和41年)から始まった三里塚闘争への支援を行い、現地を2回程訪問。三里塚芝山連合空港反対同盟へメッセージを送って激励している。1968年(昭和43年)、『都市の論理』を発表。大学紛争の全共闘運動にあった学生たちに大きな影響を与え、ベストセラーとなる。その後は新左翼の革命理論家的存在となり、学生運動を支援。1972年(昭和47年)に発生したあさま山荘事件について羽仁は、志水速雄との対談において「権力を持っているものが人民を隅に追い込んでいった結果であり、そこに発生したことがらの全責任は権力を握っている側にあるんですよ」、「正義は虐げられている側、抑圧されている側、つねに少数の側にある」と連合赤軍を擁護した。志水が「知識人が学生を甘やかしたからあんなことになったのではないか」と追及すると「言論の責任を取ることになってくれば、言論の自由なんていうものは保証できないんですよ」と主張した。晩年も精力的に活動し、死の前年の夏にも葉山の海で泳ぐほど健康であったが、1983年(昭和58年)3月に肺炎を起して藤沢市民病院に入院。4月末には回復したが、5月に再発。6月8日午後3時10分、肺気腫のため藤沢市民病院にて死去。享年82。


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マルクス主義歴史学の体系化と鋭い文明批評で知られる歴史学者・羽仁五郎。特に戦後に出した『都市の論理』は、その本を片手に大学を闊歩するのが流行ったといわれたくらいのベストセラーとなり、当時の若者に強い影響を与えた。反体制の教祖、進歩的知識人の代表的人物と言われながらも、今や知る人ぞ知る存在になってしまった羽仁五郎の墓は、東京都豊島区の雑司が谷霊園にある。広大な自由学園の創始者「羽仁吉一・もと子」夫妻の墓の右横に「羽仁五郎・説子」と彫られた洋形の墓が建つ。背面には墓誌が刻む。

by oku-taka | 2019-01-26 21:46 | 学者・教育家 | Comments(0)