2019年 01月 05日
二代目・大川 橋蔵(1929~1984)

二代目・大川 橋蔵(おおかわ はしぞう)
俳優
1929年(昭和4年)~1984年(昭和59年)
1929年(昭和4年)、東京市柳橋(現在の東京都台東区)に柳橋の芸妓の子として生まれる。本名は、丹羽 富成(にわ とみなり)、旧姓は小野(おの)。生後まもなく小野家の養子となる。養父は二代目市川瀧之丞という歌舞伎役者で、端整な顔立ちの富成を役者に育てようと、幼い頃から舞踊を仕込む。1935年(昭和10年)、市川男女丸を名乗って初舞台を踏む。そのとき舞台を務めていた六代目尾上菊五郎に素質を認められ、以後目をかけられるようになる。1944年(昭和19年)、六代目の妻・寺島千代の養子となり、その実家の「丹羽」姓を継ぐとともに、二代目大川橋蔵を襲名した。この頃から六代目は体調を崩しはじめたが、それでも橋蔵は六代目が死去するまで一つ屋根の下で暮らしを共にし、音羽屋相伝の芸のみならず、役者として大看板として己がいかにあるべきかを身につけていった。1949年(昭和24年)に六代目亡き後は菊五郎劇団に属し、主に娘役として頭角を現すようになる。しかし六代目という絶対の後ろ盾を失った橋蔵は、戦後という新しい時代の中で歌舞伎界の前途や自身の将来に不安を感じていた。また、一足先に大映から銀幕デビューした八代目市川雷蔵が、自分とよく似た境遇にあった橋蔵に映画界入りをしきりに勧めていたという。1955年(昭和30年)、『笛吹若武者』で映画デビュー。この時は歌舞伎に籍を置いたままだったが、2作目の『旗本退屈男』を撮った後でマキノ光雄の誘いに応じて東映に入社。この2年前に東映入りした中村錦之助の映画界入りの際のゴタゴタなど、保守的で硬直化した当時の梨園の内部事情も影響し、映画界入りに際しては歌舞伎の世界と縁を切った。入社後は、東千代之介・中村錦之助・市川雷蔵・大川橋蔵の四人は「二スケ二ゾウ」と呼ばれ、若手時代劇スターを代表する一人として昭和30年代の日本映画黄金時代の立役者となっていく。以後10年間で約110本の映画に出演し、『若さま侍捕物帖』や髪形を総髪にして中性的な主人公像を具現した『新吾十番勝負』シリーズなどが当たり役となった。1957年(昭和32年)には映画雑誌の人気投票でいきなり圏外から2位に、翌年には1位にランクされるなどアイドルスターのような扱いとなった。しかし、本人としては「大人っぽい役をやりたい」と会報紙にこぼすようになる。1958年(昭和33年)の『くれない権八』では、脚本家の鈴木兵吾史と企画者と三人で作品について深夜まで話し合ったが、「余り暗いものはダメ。汚れてもダメ。死んでもダメ。ハッピーエンドでないとダメ」と東映から物言いが付き、出来上がった脚本は全然別物になってしまったと嘆いた。その後、豪華セットによる『恋山彦』(1959年)、戦前に林長二郎(後の長谷川一夫)が演じたリメイク『雪之丞変化』(1958年)、歌舞伎や人形浄瑠璃で上演される舞踊「保名狂乱」と「葛の葉子別れ」の部分を舞台様式として取り入れた『恋や恋なすな恋』(1962年)といった異色時代劇にも出演。1962年(昭和37年)、明治座で東映歌舞伎が公演。市川右太衛門、片岡千恵蔵、大友柳太郎、東千代之介らと共に出演した同公演は、銀幕スターが生で見られるとあって明治座始まって以来の客入りを記録。翌年の第二回公演以降は橋蔵が座長と言ってもよいほど舞台の中心に位置し、その後の歌舞伎座公演へと繋がって行く。この頃、映画全般がテレビに押されはじめ、特に時代劇は斜陽の時期に入り、橋蔵も映画の本数が1963年(昭和38年)あたりから激減した。若さま路線からの脱皮作『幕末残酷物語』や『この首一万石』(ともに1964年)など、リアリズムに徹した演技に挑戦したが、ファンからは「美しくない」と低評価であった。やがて東映がヤクザ映画に路線転換していくと、1966年(昭和41年)の『旗本やくざ』を最後に活動の場を舞台やテレビに移す。同年、フジテレビで『銭形平次』が放映開始。この頃、東映は時代劇をテレビへ委ねる方針を打ち出しており、当時の橋蔵ファンが結婚して家庭でテレビを見られることもあって高視聴率を記録。同作のヒットは東映のテレビ事業全体が日本のテレビ映画制作の約40%に及ぶシェアを占める契機となった。1984年(昭和59年)、『銭形平次』が最終回を迎え、18年間で888回に及ぶ長期シリーズに終止符を打った。この時点で「1人の俳優が同じ主人公を演じた1時間ドラマ」としては世界最高記録となり、ギネスブックに認定された。銭形平次が終わってすぐにフジテレビで放送された現代劇『蝶々さんと息子たち』に出演。踊りの家元役であったが、この撮影中に倒れ入院。橋蔵は前年9月頃より体調を崩しており、入退院を繰り返しながら銭形平次の収録に臨んでいた。11月25日に最後となる入院時、既に結腸癌が肝臓に転移している状態だった。病名は本人には告げられなかったが、自らの病気を察知し「大酒も飲まず煙草も喫まず、食事にも気を遣い、いつも腹に健康帯を巻いてきた私が、何故こんな病気になったんですか」医師にと訴えたという。12月7日午前1時29分、急性肝不全のため死去。享年55。

甘いマスクと圧倒的な存在感で世の女性を魅了した大川橋蔵。『若さま侍捕物帖』『新吾十番勝負』シリーズで東映の時代劇映画最後の黄金期を彩り、『銭形平次』で18年間もお茶の間の顔として活躍した。歌舞伎で身に付けた確かな演技力、色気、時代劇映画で見せたしなやかな剣さばき、どれをとっても絵になる文句なしの2枚目スターであった。それでいて性格は真面目で頑固。京都に来たばかりの頃、撮影所の近くにあった食堂で「カツレツ」を頼み、それが美味しかったから毎日食べていた。ある日、カツレツの常食が半年も続いたのを見かねた食堂の人がエビフライを薦めた。そしたら今度はエビフライを一年間も常食してしまった…という『徹子の部屋』で再三話されたこのエピソードは、橋蔵の実直さをよく表している。役者としても人間としても魅力的な人だっただけに、55歳での旅立ちはあまりに早すぎた。惜しまれる名優・大川橋蔵の墓は、東京都豊島区の雑司が谷霊園にある。墓には「南無阿彌陀佛」とあり、墓誌はないものの左側に「如在 大川橋蔵 藝魂 鎮止榮域」 と彫られた記念碑が建つ。

