2019年 01月 04日
いずみたく(1930~1992)
いずみ たく
作曲家
1930年(昭和5年)~1992年(平成4年)
1930年(昭和5年)、東京市下谷区谷中に生まれる。本名は、今泉 隆雄(いまいずみ たかお)。幼少期、芝居好きの父と宝塚ファンの母に連れられ劇場に通う。一方で軍人に憧れていたいずみは、東京府立第五中学校を経て、1944年(昭和19年)仙台陸軍幼年学校に入学。特攻隊員になることを夢見るも、在学中に敗戦を迎える。戦後は俳優を志し、1946年(昭和21年)に鎌倉アカデミア演劇科へ入学。1950年(昭和25年)、舞台芸術学院演劇学科を卒業。劇団小熊座に入団し、俳優として全国公演に携わる。地方公演のときに観客に楽しんでもらおうとアコーディオン演奏を始め、やがて音楽に夢中となる。その後、折からのブームとなっていた「うたごえ運動」に参加。ダンプの運転手などをしながら芥川也寸志に師事し、作曲活動を始める。1955年(昭和30年)、『葡萄の歌』で朝日放送ホームソングコンクール・グランプリグランプリを受賞。これがきっかけとなり、作曲家の三木鶏郎から誘いを受け、三木が率いる冗談工房に参加。トリローグループの一員として、『チョコレートは明治』(明治製菓)『伊東に行くならハトヤ』(ハトヤ)といったCMソングを多く手がけた。1960年(昭和35年)、当時音楽鑑賞団体の舞台監督であった永六輔が、日本ではなじみの薄いミュージカルを広めようと企画を持ちかけ、ミュージカル「見上げてごらん夜の星を」を制作。夜間高校生たちのさまざまな青春像をテーマとした同作は、スターが一人も出ないにもかかわらず高い評価を獲得。以降、ミュージカルの創作にも意欲を燃やす。1962年(昭和37年)、個人音楽事務所「いずみたくミュージックオフィス」を開設。1963年(昭和38年)、株式会社オールスタッフプロダクションを設立。同年、坂本九が永六輔に熱望し、坂本九、九重佑三子、ダニー飯田とパラダイス・キング出演で「見上げてごらん夜の星を」を再演。坂本九が歌う主題歌『見上げてごらん夜の星を』が大ヒットとなり、いずみは第5回日本レコード大賞作曲賞を受賞した。1965年(昭和40年)、永六輔作詞、いずみたく作曲、デューク・エイセスが歌うという「にほんのうた」シリーズを開始。日本全国各地のご当地ソングを作るというコンセプトのもと、作詞の永と作曲のいずみの二人が実際に各都道府県を旅し、1か月に1曲制作された。この企画は足がけ4年にもわたり、『いい湯だな』『女ひとり』『筑波山麓合唱団』といったヒットも多く生まれた。同作で1966年(昭和41年)の第8回日本レコード大賞企画賞を受賞。その一方で、岩谷時子や山上路夫といった気鋭の作詞家たちとコンビを組み、『世界は二人のために』(1967年/佐良直美)、『恋の季節』(1968年/ピンキーとキラーズ)、『夜明けのスキャット』(1969年/由紀さおり)とヒットを連発。1969年(昭和44年)には佐良直美が歌った『いいじゃないの幸せならば』で第11回日本レコード大賞を受賞した。一方、「歌はドラマである」という自らのモットーに基づいて、「洪水の前」「おれたちは天使じゃない」など多数のミュージカルを手がけた。1975年(昭和50年)、イズミ・ミュージックアカデミーを設立。翌年には六本木の自社ビル地下に作った客席数100席の劇場アトリエフォンテーヌが開館。そこを拠点に数々の実験的な公演を行った。また、ミュージカル俳優の育成にも情熱を注ぎ、1977年(昭和52年)ミュージカルを専門に上演する劇団フォーリーズ(現在のミュージカルカンパニー イッツフォーリーズ)を旗揚げ。日本のミュージカル界で活躍する多くの俳優を育てた。1986年(昭和61年)、第二院クラブから参議院比例区に出馬するも落選。1989年(平成元年)、青島幸男辞職による繰り上げ当選となった。議員としての活動では、「日本は世界第2位の経済大国であるのに、国の文化・芸術関連への予算配分が少なすぎる」として、文教関係予算の増額のために尽力した。1992年(平成4年)5月11日、肝不全のため死去。享年62。
歌謡曲からCMソング、童謡、アニメ主題歌と今も多くの人々の心に残る名曲を生み出した作曲家・いずみたく。幅広いジャンルで約1万5000曲を作曲し、昭和40年代の歌謡界を彩った。彼の紡ぐメロディーは、メジャー調であってもマイナー調であってもどこか明るく、綺麗なメロディーは希望にあふれていた。晩年はミュージカルに力を注いだいずみたくの墓は、東京都豊島区の雑司が谷霊園にある。洋形の墓には「今泉家」とあり、左側に顕彰碑が建つ。