2019年 01月 03日
山岡久乃(1926~1999)
山岡 久乃(やまおか ひさの)
女優
1926年(大正15年)~1999年(平成11年)
1926年(大正15年)、東京府東京市大森区馬込(現在の東京都大田区)に生まれる。本名は、山岡 比佐乃(やまおか ひさの)。1942年(昭和17年)、33期生として宝塚音楽舞踊学校に入学。男役志望で「清澄あきら」の芸名も予定していたが、第二次世界大戦勃発・進展により劇団生活に限界を感じ、一度も舞台に立つことなく1944年(昭和19年)に音楽学校を中途退学。終戦後、改めて俳優座養成所で演技の勉強をしなおし、1946年(昭和21年)に俳優座へ入団。同年、『文化議員』で初舞台を踏む。1953年(昭和28年)、渋谷実監督『やっさもっさ』で映画デビュー。1954年(昭和29年)、同じ俳優座の準劇団員だった東恵美子、初井言栄らとともに劇団青年座を結成。『肥前風土記』『坂本竜馬についての一夜』など、青年座創生期を屋台骨として劇団を支える。その後、日活と専属契約を結び、多くの映画に出演。以来、舞台をはじめ映像分野でも幅広く活躍する総合女優として活躍する。1953年(昭和28年)、NHK『竜舌蘭の誓い』に本名・山岡比佐乃で初主演し、テレビドラマデビューを飾る。この頃、妻子持ちの俳優・小沢栄太郎と恋仲となる。1954年(昭和29年)には破局を迎えたが、小沢と山岡との関係に精神的に悩んだ小沢の妻は自殺してしまう。1956年(昭和31年)、同じ青年座創立メンバーだった俳優・森塚敏と結婚。1960年(昭和35年)、TBSドラマ『ただいま十一人』に出演。同作で石井ふく子プロデューサーと出会い、以後『女と味噌汁』『肝っ玉かあさん』など石井作品の常連となる。1966年(昭和41年)には主演映画『こころの山脈』も公開され、女優としてステップアップしていった。 1968年(昭和43年)、『眠れる美女』『カモとねぎ』『女と味噌汁』で毎日映画コンクール助演女優賞を受賞。1970年(昭和45年)、テレビドラマ『ありがとう』に出演。娘役の水前寺清子とのコンビで視聴率50%を突破し、怪物ドラマと呼ばれた。この作品を契機に白い割烹着が似合うような「日本を代表するお母さん女優」としての地位を確立し、役者としても人気を決定付けた。1971年(昭和46年)、森塚敏と離婚。同年、青年座を退団。フリーとなり、テレビに活動の中心を移した。以後、『みんなで7人』『三男三女婿一匹』『あんたがたどこさ』など多くのホームドラマで母親役を演じ続け、「日本のお母さん」として慕われた。1981年(昭和56年)、舞台『近松心中物語』で文化庁芸術祭大賞を受賞。1984年(昭和59年)、イギリスBBCにより製作されたジョーン・ヒクソン主演の『ミス・マープル(英語版)』の吹き替えを担当。作品はNHK、テレビ東京で放送されていずれも好評を博し、山岡が新劇出身であることを改めて印象付けた。 1990年(平成2年)、紫綬褒章を受章。同年、TBSが開局40周年を記念して企画されたドラマ『渡る世間は鬼ばかり』に主演。1年間シリーズとして放送したが、好評を得て断続的にシリーズ化され、山岡にとって晩年の代表作となった。1997年(平成9年)、勲四等宝冠章を受章。1998年(平成10年)10月1日、『渡る世間は鬼ばかり』の主役・岡倉節子役を降板。番組の顔とも言える山岡の突然の降板劇は、世間で数々の憶測を呼んだ。第3シリーズ終了後、次シリーズへの出演拒否の意思を貫く山岡に対し、橋田や石井は何度も出演要請をするが、山岡の意思は変わらなかった。これに対し橋田はTBSに「山岡さんなしではドラマが成り立たないので、もうこのドラマはやめましょう」と打ち切りの方針を伝えたが、TBSは納得せず、節子を死亡した設定にして脚本も作り変え、製作することとなった。TBSは山岡の降板にあたり、異例の「山岡降板説明記者会見」をマスコミに対して開き、「ああいう(急死の)形にしたことは山岡さんにも了解してもらっています」と説明した。これに伴い、小島五月役の泉ピン子が主役に昇格した。理由のはっきりしない山岡の突然の降板は、民放各局のワイドショーや週刊誌などを中心に世間を騒がすこととなり、山岡の認知症発症説や山岡と橋田の確執説、山岡の橋田への報復説なども噂されることとなった。また、当時メディア出演が多くあった橋田が「山岡さんは私のことがよっぽどお嫌いなんでしょうね」などと山岡への不用意な発言を度々行ったことも騒動に火に油を注いだ。実際の降板理由は、「パート3撮影時に発覚した石井の脱税騒動で自分の名前が脱税のために勝手に利用されていたことによる石井への不信感と、総胆管結石および肝機能障害のため体調を崩し、自身の年齢も考えて、今後は自分の好きな仕事だけをしていくと決めたためだった」と山岡の死去後に週刊誌に報じられた。また、これと時を同じくして、東京にあった住まいを引き払い、愛知県豊田市に知人が開設する予定を立てていた老人ホームに「終の棲家」として入所することを決めており、引っ越しの準備もパート3が放送された時期には既に始めていたという。 12月、自らが胆管癌を患っていることを告白。同月15日に所属事務所を通じて、山岡は「70年突っ走ってきてそろそろゆっくり歩いて行こうかと思っていた矢先に『癌』という最悪のシナリオを頂いてしまいました。ただ、幸いなことに、このシナリオには結末が書いてありません。私が自由に演じていいことになっているんですね。力が入りますよ。もう少し時間がかかると思いますが、しばらくこの女優の底力を見守ってください」というコメントを発表した。この発表を聞いた橋田はそれまでの自分の発言を悔い、神社へお百度参りし、山岡の回復を祈ったという。しかし、上記のコメント発表から僅か2ヶ月後の1999年(平成11年)2月15日午後10時02分、胆管癌による心不全のため神奈川県川崎市の病院で死去。享年72。山岡の死去は各局のニュース速報でも流れ、連日のワイドショーなどでも大きく報道された。一部スポーツ紙では、一面トップ記事扱いにもなった。築地本願寺で行われた通夜・葬儀には、「これだけ大物俳優・女優が揃う通夜・葬儀は珍しい」と評されるほど多くの俳優仲間・後輩が訪れ、一般の参列者も多く訪れた。喪主は養女が務め、通夜・葬儀の演出は石井ふく子が担当し、弔辞は森光子と長山、蜷川幸雄が読んだ。棺の葬儀場入りの際は、棺を乗せた車が1時間をかけて明治座、帝国劇場、芸術座をまわり、沿道には1万人のファンが集まった。また、2月19日にTBSが放送した追悼番組は、18.6%の視聴率を獲得した。
日本を代表するお母さん女優として多くのホームドラマで名演を見せた女優・山岡久乃。時に厳しく、時に口やかましく、時に情にもろい日本の母親を巧みに演じ分け、京塚昌子、森光子、加藤治子とともにホームドラマの黄金期を支えた。私が昭和の役者に興味を抱くきっかけになったのも、『渡る世間は鬼ばかり』で見た山岡久乃の演技に魅了されたからであり、彼女が亡くなったときは幼稚園生であったが、山岡の告別式中継を涙ながらに観ていた記憶がある。私にとって忘れられない名女優・山岡久乃の墓は東京都墨田区の法恩寺墓地にある。墓には「山岡家之墓」とあり、左側面に墓誌が刻まれている。戒名は「華徳院妙伎日久大姉」。