2019年 01月 01日
初代・林家三平(1925~1980)

初代・林家三平(はやしや さんぺい)
落語家・タレント
1925年(大正14年)~1980年(昭和55年)
1925年(大正14年)、7代目柳家小三治(後の7代目林家正蔵)の長男として東京市下谷区(現在の東京都台東区)根岸に生まれる。本名は、海老名 泰一郎(えびな やすいちろう)。旧名は、栄三郎(えいざぶろう)。1943年(昭和18年)、明治大学付属明治中学校・高等学校を卒業 。明治大学に入学したが、1945年(昭和20年)3月に本土決戦部隊として陸軍に徴兵。土木作業への従事を経て肉弾特攻を命じられるが、終戦を迎えた同年10月に兵長として復員した。 復員後、本名を海老名泰一郎に改名。落語家を志し、1946年(昭和21年)2月に東宝専属である父正蔵に入門し東宝名人会の前座となる。父の前座名であった柳家三平を貰い、芸名を林家三平と名づけられる。4月、父親の独演会で初高座。1947年(昭和22年)、東宝名人会において二つ目に昇進。1949年(昭和24年)、父が死去。芸界の孤児となり、かつて父の弟子だった4代目月の家圓鏡(後の7代目橘家圓蔵)門下に移る。しかし、東宝名人会における前座経験と二つ目昇進を圓蔵は全く考慮せず、二つ目である事実は取り消され、圓蔵が所属する落語協会で改めて前座からやり直すことになる。1950年(昭和25年)、5代目柳家小さん襲名トラブルの余波で、兄弟子5代目蝶花楼馬楽(後の林家彦六)と弟弟子9代目柳家小三治が争い、負けた馬楽が正蔵の名跡を貸して欲しいという騒動が起きる。父・正蔵の一周忌すら済んでいないこの時期に、関係の薄い馬楽に名跡を譲らなければならなかったことは当時の三平の境遇をよく表しており、急遽「一代限り」の約束で5代目柳亭左楽を仲立ちに海老名家から正蔵の名跡を借り、馬楽は8代目林家正蔵を襲名した。1951年(昭和26年)、二つ目に昇進。 1952年(昭和27年)、東京大空襲で両親を亡くし、3代目三遊亭金馬に育てられていた香葉子と結婚。しかし、結婚から2か月程後に腹膜炎と胃穿孔で1か月の入院生活を送る。秋には父・正蔵から相続した土地を半分手放すなど、経済的に苦しい時期が続く。また、父・正蔵と同じく古典落語を高座で行っていたものの、「囃の途中で言葉につまる」、「登場人物の名を忘れる」などの致命的なミスが目立つことが多く、仲間内から「大変下手な奴」「鷹が生んだ鳶」などと馬鹿にされており、観客の中にも「この人は本当に落語を喋れるのか」と思うものは少なくなかった。その中でも3代目三遊亭金馬だけはその素質を感じ、「あいつはいつか大化けする」と将来の大成を予言していたという。 1954年(昭和29年)、文化放送『浪曲学校』の司会に就任。1955年(昭和30年)、三平の大師匠であった桂文楽に心酔していた出口一雄により、KRテレビ(現在のTBS)『新人落語会』(後に『今日の演芸』と番組名変更)の司会者に抜擢。時事ネタを中心に、「よし子さん」「どうもすいません」額にゲンコツをかざし「こうやったら笑って下さい」「身体だけは大事にして下さい」「もう大変なんすから」「ゆうべ寝ないで考えたんすから」「坊主が二人で和尚がツ―(お正月)」などの数々のギャグと仕種で一気にたたみかける爆笑落語で人気を博し、三平の大ブームが巻き起こる。その後、文化放送『朝からどうもすみません』『三平ちゃんと一緒に』、ニッポン放送『三平のお笑い大学』が開始し、経済的に苦しい生活から一転してテレビ界の寵児に上り詰める。1956年(昭和31年)、ミュージカル落語をスタート。1957年(昭和32年)、『頂戴な』でテイチクからレコードデビュー。石原裕次郎、三波春夫、林家三平の三羽ガラスとして売り出された。 同年10月、上野鈴本演芸場で2代目三遊亭歌奴(後の3代目三遊亭圓歌)と共に二つ目身分のままでトリを取る。1958年(昭和33年)、真打に昇進。口上は8代目桂文楽が務め、この真打披露興行もKRテレビで生中継された。前座名である三平の名を一枚看板までに大きくし、初代林家三平の名を生涯貫く。1965年(昭和40年)、日本テレビ「踊って歌って大合戦」の司会を務め、放送第一回で視聴率30,6%を記録した。テレビタレントとして活躍する一方、落語の発展にも力を注ぎ、1968年(昭和43年、落語協会の理事に就任。1970年(昭和45年)には「第7回三越落語競演会」の企画構成を担当した。1978年(昭和53年)、落語協会分裂騒動が起き、師匠の圓蔵が新団体参加を表明する。だが、三平自身はこの騒動を主導した6代目三遊亭圓生が裏で三平とその門下たちを徹底的に敵視・軽視し、冷遇していた実態を十分に把握しており、その圓生が中心人物となる新団体に移籍したところで自身とその一門にとっては百害あって一利なしと考え、自身の中では当初から「落語協会残留」に方針を定め、新団体への移籍の意志を見せず、果ては圓蔵の落語協会脱会撤回の説得に成功した。1979年(昭和54年)1月16日、脳溢血で倒れて東京逓信病院に入院。1週間の昏睡を経て右半身が麻痺し、言語症が生じたが、3月に退院。修善寺温泉へ転地療養し、中伊豆リハビリセンターで機能回復訓練のリハビリを重ね、10月1日新宿末広亭の高座で奇跡の復帰を果たした。しかし、1980年(昭和55年)9月18日に肝臓癌で東京逓信病院に再入院。9月20日、死去。享年54。ベッドの上にあっても亡くなる数時間前まで新聞や週刊誌から面白いネタや情報を仕入れようとしており、容体が急変し意識が混濁してきた際に医師から名前を呼び掛けられたところ「加山雄三です」と答えるなど、死の間際まで芸人で有り続けた。最後の言葉は、泰孝(現在の9代目林家正蔵)に対する「なんでもまじめにやれよ」であった。


テレビ時代の申し子と謳われ、3代目三遊亭圓歌とともに第一次演芸ブームの火付け役となった初代林家三平。ただひたすらにバカを演じ、くだらない事を言って人から笑われることに徹底した落語家は、後にも先にもこの人だけであろう。高座で突然立ち上がったかと思えば「好きです…好きです…好きです…よし子さん」「どうもすいません」というギャグを連発し、今でいう「スベった」空気をものともせず噺を突き進む姿を最初観たときは実に衝撃的であった。しかし、その裏側には古典落語もきっちりこなせるだけの技術と素養を持っている噺家であったことを忘れてはならない。かつて3代目桂米朝が「アホがアホなことしたっておもろいことない。常識人が真面目にバカバカしいことをするのが笑い」と語っていたが、三平はその最たる人物だったのではないだろうか。没後「昭和の爆笑王」と称された林家三平の墓は、東京都足立区の常福寺にある。墓には「海老名家之墓」とあり、右横に墓誌が建つ。戒名は「志道院釋誠泰」。