2018年 12月 31日
志賀直哉(1883~1971)
志賀 直哉(しが なおや)
作家
1883年(明治16年)~1971年(昭和46年)
1883年(明治16年)、宮城県牡鹿郡石巻町に生まれる。父は当時第一銀行石巻支店に勤務していたが、2歳の時に第一銀行を辞め、父とともに東京府麹町区内幸町へ移る。1889年(明治22年)、学習院に入学。1895年(明治28年)には学習院中等科に入学。1896年(明治29年)、有島生馬らとともに「倹遊会」(後に「睦友会」に改名)を結成し、会誌『倹遊会雑誌』を発行。直哉は「半月楼主人」や「金波楼半月」といった筆名で同誌に和歌などを発表。これが初めての文筆活動となったが、この頃はまだ小説家志望ではなく、海軍軍人や実業家を目指していた。1901年(明治34年)、志賀家の書生だった末永馨の勧めにより、新宿角筈で行われていた内村鑑三の講習会に出席。煽動的な調子のない内村の魅力に惹かれ、以後7年間内村に師事する。1903年(明治36年)、学習院高等科に入学。高等科の頃は女義太夫に熱中し、それがきっかけとなり小説家志望の意志を固めた。1906年(明治39年)、学習院高等科を卒業。東京帝国大学英文学科に入学する。1907年(明治40年)、武者小路実篤、木下利玄、正親町公和と文学読み合わせ会「十四日会」を開く。1908年(明治41年)、「十四日会」の4人により同人誌『暴矢』(後に『望野』)を発行。同年、国文学科に転じたが、大学に籍を残したのは徴兵猶予のためだけで授業にはほとんど出席せず、大学からは足が遠のいた。1910年(明治43年)、正式に東京帝国大学を中退。そのため徴兵猶予が解かれ、徴兵検査を受ける。甲種合格となり、同年12月1日、千葉県市川鴻之台の砲兵第16連隊に入営するが、耳の疾患を理由に8日後に除隊する。 同年、『望野』のメンバー、『麦』(里見弴らが所属)のメンバー、『桃園』(柳宗悦らが所属)のメンバーとともに雑誌『白樺』を創刊。その創刊号に「網走まで」を発表する。1912年(大正元年)、『中央公論』に自身と女中の結婚問題を題材にした「大津順吉」を発表。この作品で初めて原稿料100円を得る。その頃、『白樺』の版元である洛陽堂から直哉初の短編集を出版する話が進み、その出版費用を父が負担することが約束された。その費用を父に求めにいったところ、父は「小説なぞ書いてゐて将来どうするつもりだ」「小説家なんて、どんな者になるんだ」と小説家としての将来を否定するような発言をし、言い争いになった結果、直哉は10月25日に家出をし、東京の銀座木挽町の旅館に2週間ほど滞在した後、広島県尾道に転居する。1913年(大正2年)、初の短編集『留女』を刊行。後にこの短編集は夏目漱石によって賞賛された。その後、瓢箪を愛する少年と、その価値観を理解しようとしない大人たちの話「清兵衛と瓢箪」を読売新聞紙上に発表する。尾道では、父との不和を題材とした自身初となる長編「時任謙作」の執筆に着手するが、思うように筆が進まず執筆を中断。長編執筆が進まなかったことで、1913年(大正2年)4月に尾道滞在を半年程度で切り上げ帰京する。8月15日、里見弴と一緒に素人相撲を見に行き、その帰り道に山手線の電車にはねられ重傷を負い、東京病院(現在の東京慈恵会医科大学附属病院)に入院。10月より養生のために兵庫県の城崎温泉に滞在する。城崎での養生後、一度は尾道に戻ったものの、中耳炎を患い、その治療のため11月17日に帰京。その後、武者小路実篤を介して夏目漱石から東京朝日新聞に小説を連載するよう依頼される。直哉は同紙に「時任謙作」を連載する心積もりで、その執筆に取り組むために1914年(大正3年)5月に里見弴とともに島根県松江市へ転居する。しかし、小説の執筆は進まなかったため、上京して漱石宅を訪れ、その場で漱石に新聞小説連載辞退を申し出た。漱石に不義理を働いたとの自責の念に悩んだ直哉は、結果的にこの年から3年間休筆をする。1917年(大正6年)、武者小路実篤の後押しもあって執筆を再開。5月、『白樺』誌上に「城の崎にて」を発表。この作品は城崎での養生中の体験を基にし、小動物の死を通して自らの生と死を考察したものであり、「心境小説」の代表作となった。その後、武者小路の勧めで書いた「佐々木の場合」、「好人物の夫婦」、「赤西蠣太」、父との和解を描いた「和解」と次々に作品を発表。代表作となった「小僧の神様」、「焚火」、「真鶴」といった作品から、雑誌『改造』における長編「暗夜行路」(「時任謙作」から題名を変更)の連載もスタートし、生涯寡作であった作家・志賀直哉にとって「充実期」といえる期間となった。しかし、「暗夜行路」の連載が1928年(昭和3年)を最後に中断。1929年(昭和4年)からは「リズム」などの随筆を除き休筆となった。1933年(昭和8年)、休筆期間中に里見弴と一緒に満州・天津・北京を旅行し、その旅行をする動機となったエピソードを小説として執筆した「万暦赤絵」で創作活動を再開。1937年(昭和12年)には中断していた「暗夜行路」を完結させた。9月、改造社から『志賀直哉全集』9巻の刊行が始まり、翌年6月に完結。直哉は最終回配本の月報に寄せた「全集完了」の短文で「私は此全集完了を機会に一ト先づ(ひとまず)文士を廃業し、こまこました書きものには縁を断りたいと思ふ」と作家活動からの廃業を宣言する。直哉は支那事変に始まる日本の優位な戦局報道に立腹しており、物を書こうとしても不満が文面に出そうで書けなかった。廃業宣言後は下落合に仕事用のアパートを借り、油絵に熱中して憂鬱な気分から救われたものの、1939年(昭和14年)前後は胆石に苦しんだ。1940年(昭和15年)、執筆活動を再開。1942年(昭和17年)、「シンガポール陥落」がラジオで朗読放送され、『文藝』3月号にも再録。シンガポールの戦いの勝利を称えた内容で、この頃は国内の戦争勝利報道に熱狂する世論に同調していたが、その後3年半沈黙する。鈴木貫太郎の「日本は勝っても負けても三等国に下る」という発言を鈴木家に出入りしていた門下の網野菊から聞かされたからとも言われており、戦後に発表した「鈴木貫太郎」などの随想では戦争に対し内心反対であった旨のことを述べている。敗戦が近づいた頃、外務大臣(当時)の重光葵の意向を汲み、安倍能成、加瀬俊一、田中耕太郎、谷川徹三、富塚清、武者小路実篤、山本有三、和辻哲郎とともに、敗戦後の国内の混乱阻止を目的に話し合う「三年会」を結成した。1946年(昭和21年)、自ら立ち上げに関わった雑誌『世界』の創刊号に「灰色の月」を発表。敗戦直後の東京の風景を描いたこの作品は久々の話題作となった。1947年(昭和22年)、日本ペンクラブの会長に就任。同クラブが主催した講演会にも挨拶文として時事エッセイ「若き世代に愬ふ」を提供し、聴衆に強い感銘を残す。1949年(昭和24年)、文化勲章を受章。1952年(昭和27年)、柳宗悦、浜田庄司と念願のヨーロッパ旅行に出発する。ヴェニスの国際美術祭に参加する梅原龍三郎も合流し、5月31日に羽田空港から出発。ローマに到着後はイタリア各地の史跡や美術館を巡り、19日間滞在。その後、パリ、マドリッド、リスボンと美術鑑賞の旅を続けるが、直哉は体調を崩し、ロンドンでは寝たり起きたりの状態になる。北欧とアメリカにも行く予定であったが、帰国する梅原に合わせて飛行機に乗り、8月12日に帰国した。1955年(昭和30年)、岩波書店から『志賀直哉全集』の刊行が始まるが、直哉は一層寡作となった。1958年(昭和33年)には時事問題を扱った2本の文章を執筆。2月には紀元節復活の議論に関する自身の意見を朝日新聞に発表。11月には、松川裁判を追っていた門下の広津和郎への信頼感から『中央公論』緊急増刊『松川裁判特別号』にその「巻頭言」を寄せている。しかし、以後は正月用の頼まれ原稿程度のものしか執筆せず、1969年(昭和44年)の随筆「ナイルの水の一滴」が最後の作家活動になった。1970年(昭和45年)、 前立腺肥大の手術を受ける。以来、自宅で療養中であったが、1971年(昭和46年)8月16日に軽い肺炎の症状をおこして関東中央病院に入院。一時は重篤の状態に陥るものの、1週間後には回復。しかし、11月21日午前11時58分、肺炎と老衰のため関東中央病院で死去。享年88。
「小説の神様」と称された白樺派の文豪・志賀直哉。寡作でありながら力強いリズムで貫かれた無駄のない文章は文体の理想のひとつと見なされ、鋭く正確に捉えた対象を簡潔な言葉で表現していると高い評価を得ている。無駄を極限までそぎ落とし、推敲を重ねて生み出された志賀文学に魅せられた文学青年は多く、尾崎一雄、阿川弘之、辻邦生、加賀乙彦などの日本人作家に影響を与えた。明治・大正・昭和を飄々と生き抜いた志賀直哉の墓は、東京都港区の青山霊園にある。墓は幅20メートル奥行き3メートルほどの大きな敷地を要垣で囲まれており、志賀家一族の墓が十基横並びに鎮座している。直哉の墓は右から二番目で、東大寺上司海雲和尚の書になる「志賀直哉之墓」の文字と、左側面に墓誌が刻まれている。なお直哉の遺骨は、陶芸家・浜田庄司の骨壺(生前は砂糖壺に使って楽しんでいた)に納められ埋骨されたが、1980年(昭和55年)盗難された。盗難発覚後の4日後に墓地から300メートルばかり離れた場所に骨だけが捨てられているのが発見されたが、それが志賀のものであったかは未だに不明である。