2018年 12月 30日
木村秀政(1904~1986)
木村 秀政(きむら ひでまさ)
航空エンジニア
1904年(明治37年)~1986年(昭和61年)
1904年(明治37年)、北海道札幌区に生まれる。誕生後すぐに家族とともに東京市へ転居。自宅近くに練兵場があり、海外からのフライング・マシーンがデモンストレーションの場所にした。1911年(明治44年)、アメリカのカーチス機が見世物の巡業として目黒の競馬場へ飛行。木村は祖父に連れられ見物に行き、生まれて初めて飛行機を認識する。帰宅後、飛行機の模型を2枚のボール紙とマッチ棒で作るほど夢中になる。1913年(大正2年)、フランス製のブレリオ XI-2 bisの飛行を目にしたが、この機が墜落し飛行士2名が死亡した事を知り大きな衝撃を受ける。その後、府立第四中学校、第一高等学校に進学。高校時代は千葉県の東京湾にあった飛行機工場へ見学に通った。1924年(大正13年)に東京帝国大学工学部航空学科へ進学。この時、航空学科へ入学した10名の中には三菱重工業で九試単座戦闘機(九六艦戦)や十二試艦上戦闘機(零戦)の設計主務者となる堀越二郎、川崎航空機でキ10(九五戦)やキ48(九九双軽)、キ61(飛燕)の設計主務者となる土井武夫がいた。1927年(昭和2年)、東京帝国大学を卒業。東京帝国大学大学院に進み、1929年(昭和4年)3月に大学院課程を修了する。同年7月に航空評議会嘱託。1930年(昭和5年)6月より東京帝国大学に置かれた航空研究所に研究生として加わり、1934年(昭和9年)10月から航空研究所嘱託となる。航研機では和田小六所長の指導下で胴体・尾翼・脚の設計、性能試験および飛行計画を担当。1937年(昭和12年)、航空研究所技師に任ぜられる。1938年(昭和13年)、航研機は周回長距離飛行10,651.011kmを達成し世界記録を樹立。1940年(昭和15年)、東京・ニューヨーク間の親善飛行を目的とするA-26の設計主務者となる。1941年(昭和16年)、東京帝国大学助教授を兼任。1944年(昭和19年)、特殊滑空機(後の桜花)の基礎設計を行なう。また、A-26が16,435kmの周回長距離飛行を成し遂げたが、戦時下であり国際航空連盟による公認を受ける事はなかった。1945年(昭和20年)、東京帝国大学教授に任ぜられると共に、航空研究所員に補される。同年、論文「飛行機と基礎形決定並びに飛行試験に於ける螺旋不安定の検討に就て」 で工学博士を取得。同年、双光旭日章を受章。1946年(昭和21年)、GHQの指令により日本の航空活動が禁止されたことから、航空研究所が官制廃止となり退官。1947年(昭和22年)、航空研究所時代の同僚であった粟野誠一日本大学教授の誘いを受け、日大旧工学部(現在の理工学部)教授に着任。1952年(昭和27年)、サンフランシスコ講和条約発効により日本の航空活動が許可され、航空活動を再開。大学研究室の学生らと二人乗り軽飛行機N52を製作開始。1953年(昭和28年)、日本航空学会会長に就任。1955年(昭和30年)、日本大学機械工学科に航空専修コースを設置。航空工学の専門教育を開始した。1957年(昭和32年)、中型機の開発を目的とした財団法人輸送機設計研究協会(通称・輸研)が設立され、木村は初代技術委員長に就任。1958年(昭和33年)、135馬力の4人乗の軽飛行機N58を製作。1960年(昭和35年)、国際航空連盟よりポール・ティサンディエ賞を受賞。1962年(昭和37年)にはN62を開発。伊藤忠航空整備と共同開発した軽飛行機は160馬力4人乗りで、韓国訪問飛行を2度実現させた。1962年(昭和37年)、初の国産旅客機YS-11の基本構想に参画。1966年、(昭和41年)、3年がかりで製作した人力飛行機「リネット号」で日本最初の人力飛行に成功。1968年(昭和43年)、 藍綬褒章を受章。1971年(昭和46年) には紫綬褒章を受章した。1974年(昭和49年)、自動車エンジンをつけたモーターグライダーN70の開発に着手。1976年(昭和51年)、人力飛行機「ストーク号」で446メートルの日本新記録を樹立、翌年には「ストークB号」で飛行距離2,093メートル、滞空時間4分27秒80の世界記録を樹立した。1975年(昭和50年)、勲二等旭日重光章を受章。1986年(昭和61年)10月10日、死去。享年82。
戦後日本の航空機技術を発展させ、航空界に大きく貢献した木村秀政。ライト兄弟の飛行機が初飛行を行った年に生まれ、6歳の時に見た飛行機で大空に憧れを抱いた少年は、戦後初の国産旅客機YS-11の設計で中心的な役割を果たし、大きく立ち遅れていた日本の航空技術の立て直しに成功した。多くの若手技術者をも育て、その技術を次世代に引き継ぐ架け橋として活躍した木村秀政の墓は、東京都港区の青山霊園にある。墓には「木村家之墓」とあり、左横に墓誌が刻む。