2018年 12月 29日
山田修爾(1945~2013)

山田 修爾(やまだ しゅうじ)
テレビプロデューサー
1945年(昭和20年)~2013年(平成25年)
1945年(昭和20年)、東京都渋谷区に生まれる。幼少期よりラジオで育ち、夕食後の家族団らんは六畳の居間にラジオを囲んで落語やクイズをよく聴き、山田にとってラジオは「想像の世界をよりかき立ててくれる最高の玉手箱だった。」という。小学校高学年の頃にはテレビが話題になってきたことから、『デン助劇場』『ひょっこりひょうたん島』『シャボン玉ホリデー』『ピンク・ムード・ショー』に夢中となり、山田にとってテレビは「娯楽を与えてくれる最高の玉手箱」だったという。1965年(昭和40年)、一浪により慶應義塾大学法学部政治学科に入学。浪人中に見た東京オリンピック開会式の生中継を機にテレビ最全盛の世の中を感じ取った山田は、将来の就職先を放送局に選択する。 1969年(昭和44年)、TBSに一般職で入社。テレビ制作を志望していたが、アナウンス部に配属され、アナウンサー第14期生として放送界にデビューする。総合系アナウンサーとして各種番組に出演後、報道記者、ナレーション等を担当し、ラジオ局第二制作部に異動してディレクターに転身。『キンキン・ケンケンのそれ行け歌謡曲』「ミュージックキャラバン」等を担当する。その後、制作局制作部に異動。当時娯楽番組を手掛けていた弟子丸千一郎の制作チームに配属され、『TBS歌えファンファーレ』を手始めに『火曜歌謡ビッグマッチ』等のバラエティ・音楽番組を担当。しかし、当時TBSではドラマや報道では盤石の強さを誇っていたが、ゴールデンタイムの音楽番組では苦戦し、山田が担当していた火曜20時枠も次々と打ち切りの憂き目に遭う。一時はドラマ制作へ移るも再び音楽班に戻り、1976年(昭和51年)『トップスターショー・歌ある限り』を担当する。1978年(昭和53年)、『ザ・ベストテン』を企画・演出。独自集計のランキングや飛行機好きを活かして得点ボードを羽田空港のフライトボードを参考にして特注したり、新幹線の駅のホームから生中継するなどの斬新な演出を考え、画期的な演出で人気番組に育てた。明るくて華やかで、毎週贅沢で奇抜なスタジオセットでの生放送。歌と全く無関係でありながら意味不明な謎のダンサーを歌手の周りに配置する「山田演出」が大きな話題を呼び、一時代を築いた。こうした功績が認められ、『輝く!日本レコード大賞』、『山口百恵さよならコンサート』の担当も任された。1989年(平成元年)の『ザ・ベストテン』終了後は、制作局演出二部、制作局制作二部の副部長→部長を経て、制作局制作二部専門職部長兼ラジオ編成制作局制作部専門職部長(1993年)、スポーツ局スポーツ番組センター制作担当部長(1995年)を歴任。スポーツ局スポーツ番組センター制作担当部長としては長野冬季五輪閉会式、バレーボール世界選手権開会式等の演出を担当。その後、編成局HDソフト部長(1999年)、デジタル番組推進部長(2000年)、編成局アナウンス部長(2001年)を歴任。編成局アナウンス部長としては小島慶子、堀井美香、久保田智子、竹内香苗等のアナウンサーを育成した。 2005年(平成17年)、経営企画局担当局次長に就任した後、9月27日に同月末でTBSを定年退職することを記念した謝恩パーティーがキャピトル東急ホテルで開かれ、黒柳徹子、関係者などが一堂に会した。TBS定年退職日となった9月30日、直系の弟子にあたる同局プロデューサーの阿部龍二郎が自身の番組『中居正広の金曜日のスマたちへ』で送別記念企画として制作した「波瀾万丈スペシャル『ザ・ベストテン』の真相」が放送され反響を呼んだ。定年退職後はクリエイティブ・メディア・エージェンシー→キャスト・プラスに移り、音楽ユニット・テノール宇田松ライブ制作、ミュージカル制作等、演出・プロデュース活動も行う一方で、常務取締役、代表取締役社長、取締役相談役を歴任。クリエイティブ・メディア・エージェンシー→キャスト・プラス及びTBSニュースバード各キャスターオーディション審査、タレント育成、人材発掘、テレビ番組監修も行っていた。2008年(平成20年)、吉川晃司主演の舞台『SEMPO -日本のシンドラー 杉原千畝物語-』の脚本・プロデュースを担当。2013年(平成25年)3月には雑誌『昭和40年男』Vol.19取材中に何度か咳き込みながらインタビューをしていたり、5月にはCS TBSチャンネル監修番組『タマネギ頭〜徹子さん初体験バラエティー〜 久米宏とゴールデンコンビ復活』の収録にも来ていたりしていたが、7月末に入院。8月28日午後12時2分、特発性間質性肺炎のため東京都内の病院で死去。享年67。


TBSを代表する名プロデューサーの一人、山田修爾。手がけた『ザ・ベストテン』は、今までになかった斬新な演出方法を次々に繰り出し、で音楽番組に新風を巻き起こした。どんなに人気歌手であろうとリクエストの総数が少なければ出演させない、「生の歌声をお茶の間に届ける」をモットーにその日その時間に出演歌手がいるところから歌ってもらうなどの手法は、真面目で几帳面で清廉潔白で曲がった事が大嫌いという山田の性格が実によく反映されていた。特に何度もランキングされながら出演を断っていた松山千春に何度も出演交渉し、「番組宛に毎週たくさんのハガキが届いている。あなたはこれだけのファンの声に応えるべきではないのか」と言い、松山千春の出演を実現させたというエピソードは何度聞いても胸打たれる。歌謡曲を通じてお茶の間に夢と希望を届けたテレビマン・山田修爾の墓は、東京都港区の青山霊園にある。かまぼこ型の墓には「山田家」とあり、右横に墓誌が建つ。戒名は「創見院篤誉修慧居士」。