2018年 12月 22日
三原脩(1911~1984)

三原 脩(みはら おさむ)
プロ野球監督
1911年(明治44年)~1984年(昭和59年)
1911年(明治44年)、香川県仲多度郡神野村(現在のまんのう町)に生まれる。大地主の末っ子として何不自由なく育った少年は、1917年(大正6年)城西小学校入学後に町内の野球クラブに入り、香川県立丸亀中学校在学中には本格的に野球へのめり込む。官吏になることを望んだ父親の意向で香川県立高松中学校に転校させられたが、高松中の校長は文武両道を推進しており、野球部入部を条件に転入を認めた。高松中では遊撃手として第14回全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園)へ出場し、準決勝まで進出したが雨天コールドで敗退した。卒業後、第四高等学校を受験するが、早稲田大学にスカウトされ入学。野球部では1年生時から二塁手として活躍し、特に1931年(昭和6年)春季の早慶戦2回戦で、投手・水原茂を相手に敢行した勝ち越しホームスチールは、早慶戦史に名を残している。しかし、1933年(昭和8年)結婚を機に野球部を退部。当時早大野球部では、学生結婚は好ましく思われていなかった為、大学を中退し帰郷する。故郷ではぶらぶらしていたが、大学時代の仲間に誘われ大阪府へ転居。1934年(昭和9年)、契約選手第1号として同年12月26日に正式発足する大日本東京野球倶楽部へ入団しプロ入り。1935年(昭和10年)1月に入営のため退団したが、1936年(昭和11年)の9月に後身である東京巨人軍へ選手兼助監督として復帰。俊足・堅守の選手だったが、応召で脚を負傷したこともあって1938年(昭和13年)にわずか実働3年で現役引退した。引退後は報知新聞で記者として活動したが、1941年(昭和16年)10月に3度目の召集令状を受け陸軍曹長として第十一師団の司令部に従軍。11月には行き先も伝えられず輸送船に乗せられ、タイのバンコクに連れて行かれた。第十一師団はのちに楯師団と改称され、1944年(昭和19年)3月にビルマへ進行(いわゆるインパール作戦)。年末には連合軍の反撃にあい、ビルマの山中に敗走を続けた。兵士たちは敵の攻撃と飢え、マラリヤで次々に死んでいった。三原もマラリヤにかかりながら何とか生き残り、1946年(昭和21年)6月に帰国した。戦後は読売新聞の運動部に記者として勤務し野球評を書いていたが、1947年(昭和22年)のシーズン途中に球団が成績不振に悩まされていたことから、安田編集局長より「不振にあえぐ巨人の監督をやってもらいたい」と要請され、監督に就任することを球団側と合意。同6月6日、大学の後輩である当時の監督・中島治康に配慮し、助監督・技術顧問へ就任した。9月には総監督へ就任し、実質的に指揮権を握った。この年巨人は5位であったが、翌年は全試合で三原が指揮をとり2位となった。しかし、1949年(昭和24年)試合中に相手だった南海ホークスの選手を殴打する事件(三原ポカリ事件)を起こし、無期限の出場停止処分に処される。後に救済運動があり、出場停止は100日に減じられ、同年7月23日より復帰。三原の離脱があったもののチームは優勝を果たした。同年、水原茂がシベリア抑留から復帰し、ファンや選手から水原のプレーを期待する声が高まった。しかし、総監督の三原は水原を起用することはなく、「水原は巨人の功労者である」とチーム内から批判が起きた。シーズン終了後、巨人選手たちが三原を排斥して水原を擁立しようとするいわゆる「三原監督排斥騒動」が発生。球団はこれをみて「総監督・三原、監督・水原」の人事を発表し、セントラル・リーグへ加盟した1950年(昭和25年)より指揮権は水原が握ることになった。総監督になった三原には球団から仕事が与えられることはなく、退屈しのぎに日がな碁を打つ日々をすごしていた。その後、パシフィック・リーグの西鉄クリッパースに移籍していた元巨人投手川崎徳次と西鉄球団社長西亦次郎の説得 で、1951年(昭和26年)西鉄ライオンズの監督へ就任。巨人総監督時代の悶々とした気持ちを晴らすため、西鉄を強大なチームに育て上げ、日本シリーズで巨人と対戦して負かそうと誓った三原は、1952年(昭和27年)に中西太や球界屈指のスター大下弘の獲得に成功すると、豊田泰光、稲尾和久ら若手有望選手を相次いで獲得。大下を軸とするチーム作りを進めた。1954年(昭和29年)、チーム初のリーグ優勝を果たす。しかし、セ・リーグは中日ドラゴンズが巨人を抑えてリーグ優勝を果たし、この年の日本シリーズでは巨人との対戦はならなかった。シリーズは中日に3勝4敗で敗れた。1956年(昭和31年)、2年ぶりの優勝を果たすと、対戦相手は水原率いる巨人となった。この両者の戦いはマスコミから「巌流島の決闘」と評されるほどの注目を集め、4勝2敗でついに念願の「巨人を破っての日本一」を成し遂げた。以後3年連続で巨人と日本シリーズで対戦し、いずれも三原率いる西鉄に軍配が上がる。特に1958年(昭和33年)の日本シリーズは、西鉄が第1戦から3連敗しいきなり王手をかけられるが、第4戦以降は稲尾が連投し、ついに4連勝して逆転日本一を勝ち取った。日本シリーズ史上初、ワールドシリーズにも前例がない「3連敗からの4連勝」であり、この年の両者の戦いぶりは日本プロ野球の歴史に残る名勝負と称えられる。しかし、三原は西鉄を退団して他球団への移籍を目論み、大洋ホエールズが三原の意向を掴んで監督就任寸前までこぎつけたが、報知新聞(後のスポーツ報知)がこれをスクープし、結局西鉄に残留する。しかし、1959年(昭和34年)は4位に低迷し退団。大洋監督に就任した。当時の大洋は6年連続最下位であり、万年最下位の大洋に名将の誉れ高い三原が監督に就任したことは大きな話題を呼んだ。そして、水原率いる巨人とペナントレースで闘うことになりマスコミから「巌流島の戦い再現」と喧伝された。1960年(昭和35年)は開幕から6連敗を喫し、エース秋山登もいきなり戦線離脱する苦しい幕開けだったが、すぐさま選手起用が冴え渡り、巨人と優勝争いを繰り広げた。前年には0勝に終わった権藤正利をリリーフ専門で起用して復活。左腕の鈴木隆を中継ぎ・リリーフで巧みに使い、投手力の底上げに成功した。打線は低打率であったが、二塁手に新人の近藤昭仁を起用し、遊撃のレギュラーだった麻生実男は代打で重点的に起用し、トレードで近鉄バファローから鈴木武を獲得して遊撃に起用するなどの使い分けを行った。三原はこれらの選手を「超二流選手」と呼び、この「超二流選手」たちを巧く組み合わせる采配を取り、1点差試合に33勝17敗という勝率を挙げていった。こうして巨人を下して球団史上初のリーグ優勝を成し遂げた。 日本シリーズは「ミサイル打線」との異名を持つ大毎オリオンズとの対戦となり、下馬評では圧倒的な大毎有利であったが、初戦からの4連勝(全て1点差試合)で下して日本一。日本プロ野球史上初の前年度最下位球団による、リーグ優勝・日本一を達成した。また監督として3球団での優勝も史上初であり、この功績が評価され、スポーツ界では初めて菊池寛賞を受賞した。その後も大洋は阪神タイガースと首位争いを演じ、優勝スレスレに至るがいずれも惜しくも優勝を逃した。1967年(昭和42年)、辞任を表明。1968年(昭和43年)、4年連続最下位だった近鉄バファローズの監督に就任。1年目は4位で終わったが、2年目には阪急ブレーブスと優勝争いを繰り広げて2位となる。3年の任期満了に伴い、1970年(昭和45年)限りで退任。1971年(昭和46年)、ヤクルトアトムズの監督に就任。優勝はできずAクラス(2・3位)入りもならなかったが、就任前年には勝率.264とドラフト制導入以後最低勝率を記録した崩壊状態のチームを、1年目は最下位ながらも勝率.419、2年目には勝率.472(4位)、3年目は勝率.488で首位巨人に4.5ゲーム差にまで詰め寄るなど、短期間で立て直した。また入団したばかりの若松勉の打撃センスを見抜き、1年目からレギュラーに抜擢。三原と共に打撃コーチとしてヤクルト入りした中西とのマンツーマン指導の甲斐もあり早くも首位打者になるなど、若松が大打者として羽ばたくきっかけを作った。1973年(昭和48年)、日本ハムによる日拓ホームフライヤーズ買収へ関与し、日本ハムファイターズ(日本ハム球団株式会社)の代表取締役社長兼球団代表へ就任。娘婿の中西を監督に据えたが、チームは2年連続最下位に終わり、後任に大沢啓二を招聘した。大沢はBクラスだったファイターズを優勝を狙えるチームにまで育て上げ、1981年(昭和56年)には前身の東映時代以来19年ぶりにリーグ優勝を果たした。この間チームの体質改善を図り東映時代からの主力を次々に放出させた。1983年(昭和58年)、野球殿堂入りを果たす。晩年は持病の糖尿病が悪化し、歩行も不自由な状態に陥っていた。1984年(昭和59年)2月6日午後10時40分、急性心不全のため死去。享年72。


最下位に沈んだ球団を多く立て直し、「球界の魔術師」と称された三原脩。選手の調子、ツキを見逃さない慧眼の持ち主であり、そうした選手の心理を巧みに掴んでゲームに生かし、周囲の予想を超える選手起用・戦術で勝利につなげる手法は「三原マジック」とも呼ばれた。後にあらゆる名将に付けられた「○○マジック」の元祖的存在である。そうした背景には「打倒巨人」「打倒水原茂」の思いがあり、古巣に一矢報いるべく三原は勝利への戦術を磨いていった。生前「野球は筋書きのないドラマである」という言葉を残した知将・三原脩の墓は、東京都世田谷区の実相寺にある。墓には「三原家」とあり、右側面に墓誌が刻まれている。戒名は「顯徳院釋脩道」

