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五代目・柳家小さん(1915~2002)

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五代目・柳家 小さん(やなぎや こさん)

落語家
1915年(大正4年)~2002年(平成14年)


1915年(大正4年)、長野県長野市に生まれる。本名は、小林 盛夫(こばやし もりお)。実父は長野市で紡績業、次いで金融業を営むも破産し、一家で東京府浅草に転居。さらに関東大震災の被災を免れた一家は丸の内に転居。日比谷尋常小学校から麹町高等小学校に入学(いずれも現在の千代田区立麹町小学校)。13歳の頃から剣道を学び、在学中は剣道部副将として東京市剣道大会で優勝している。職業剣道家を目指すも中耳炎で断念。卒業後は東京市立商業学校夜間部に入るが、後に中退。法律事務所の事務員として働きながら夜学に通う中で落語家を志すようになる。1933年(昭和8年)、4代目柳家小さんに入門。4代目は人のあだ名を考えるのが巧く、盛夫は「おまえは栗ににているから」と柳家栗之助と名付けられた。前座時代の1936年(昭和11年)、大日本帝国陸軍歩兵第3連隊に徴兵され二等兵となる。同年2月26日に起こった二・二六事件では、反乱部隊の機関銃兵として警視庁占拠に出動した。小さんや同僚兵士は事前にまったくクーデター計画を知らされず、当日出動命令を受けて支給された弾薬が実弾だったことから「あれ、今日は、演習じゃねえんだな」と思ったという。1939年(昭和14年)、二つ目に昇進して柳家小きんと改名する。2代目三遊亭歌笑、4代目柳亭痴楽らと若手のホープと目されたが、1943年(昭和18年)再び召集。仏印で終戦を迎え、1946年(昭和21年)に復員した。1947年(昭和22年)、九代目柳家小三治を襲名して真打ちとなるが、間もなく師の小さんが急逝。8代目桂文楽の預かり弟子となる。1950年(昭和25年)、師の名である5代目小さんを継いだ。滑稽噺を専ら得意とし、巧みな話芸と豊富な表情で落語界の第一人者となる。特に蕎麦をすする芸と酒の飲み方の芸などは有名であり、その真に迫った仕草は絶品として知られた。映画・テレビにも積極的に出演し、特に永谷園即席みそ汁「あさげ」と墓所・墓石業の須藤石材の広告塔として長らく活躍した。1962年(昭和37年)、芸術祭賞奨励賞を受賞。1967年(昭和42年)には二度目の芸術祭賞奨励賞を受賞。1972年(昭和47年)、落語協会会長に就任。1975年(昭和50年)、紫綬褒章を受章。1978年(昭和53年)、真打ちの大量昇進や昇進試験などの問題で落語協会前会長の6代目三遊亭圓生と対立して円生一門の脱退を招く。1983年(昭和58年)には愛弟子であった7代目立川談志とも真打ち制度をめぐって衝突し、談志一門の離脱騒動が起こった。性格は非常に穏やかで、大御所でありながらも情にもろく、周囲の意見をよく聞くという面が災いし、こうした混乱に繋がってしまったという指摘もある。1985年(昭和60年)、勲四等旭日小綬章を受章。1995年(平成7年)、落語家初の人間国宝に認定。1996年(平成8年)、高座の合間に上野広小路でマッサージを受けている最中に脳梗塞を発症。この時、たまたま同室の客が東京大学の医師で迅速な対処を受けることができたため、後遺症が比較的軽く済んで高座に復帰することができた。その後も落語家として活躍したが、 2002年(平成14年)5月16日午前5時、心不全のため東京都豊島区目白の自宅で死去。享年87。死去前夜、「ちらし寿司が食べたい」と言い、寿司屋から取り寄せて夕食に食べ、「明日はいなり寿司が食べたい」と言って寝室に行った。翌朝起きてこないので家人が見に行くと、眠ったまま死去していたという。没後、従五位を追贈。


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落語界で初となる人間国宝となった5代目柳家小さん。小さんの魅力は何といっても仕草に尽きる。特にそばの食べ方、酒の飲み方はまさに絶品であり、小さんが「時そば」を話した後は寄席近くの蕎麦屋が混み合ったという伝説まで残している。話芸もピカイチで、人情噺よりも聴衆者を惹きつけにくい滑稽話で多くの人を魅了させることができるのは、やはり「名人」と言わざるを得ない。生前「芸は人なり。噺に出てくるのだから心は清廉潔白でなければいけない」と語っていた柳家小さんの墓は、東京都世田谷区の乗泉寺世田谷別院にある。墓には「南無阿弥陀」とあり、右側面に墓誌が刻む。戒名は「本行院殿法勲語咄日盛居士」

by oku-taka | 2018-12-20 21:58 | 演芸人 | Comments(0)