人気ブログランキング | 話題のタグを見る

由利徹(1921~1999)

由利徹(1921~1999)_f0368298_19592431.jpg

由利 徹(ゆり とおる)

喜劇俳優
1921年(大正10年)~1999年(平成11年)


1921年(大正10年)、宮城県石巻市に生まれる。本名は、奥田 清治(おくだ きよはる)。少年時代からチャーリー・チャップリン、ダニー・ケイなどの喜劇映画に親しみ、コメディアンを目指す。その後、ピストン堀口に憧れてボクサーを目指し、1940年(昭和15年)に上京。旭拳闘クラブに入門するが長続きせず、草野球の手伝いを頼まれたのがきっかけで、1942年(昭和17年)にムーランルージュへ入団。入団当時は、喜劇役者になろうとは少しも思ってなく、二枚目の役者にはなれると思っていた。しかし、翌年に大日本帝国陸軍に応召し、中国華北地方へ赴任。1945年(昭和20年)に帰国し、ムーランルージュに復帰。1951年(昭和26年)、ムーランルージュが解散し、3月に帝国劇場公演『マダム貞奴』に出演。しかし、新宿セントラル劇場側から帝国劇場よりも高額なギャラを提示されてそれに乗り、同劇場を振り出しとしてストリップ劇場のコントで活躍。最初の芸名は自ら名付けた「南啓二」だったが、その後「宇留木三平」となり、その後「ムリトウル」(「無理通る」に由来)にしようとしたが「この名前では大物になった時に困るだろう」として、一字変えて「由利徹」とした。1956年(昭和31年)、南利明・八波むと志とともに『脱線トリオ』を結成。日本テレビ『お昼の演芸』に出演してから爆発的な人気となり、映画や舞台、テレビを席巻。特に由利による「カックン」のギャグは当時の流行語となり、1959年(昭和34年)には自身主演で映画『カックン超特急』が製作され、レコード『カックン・ルンバ』もヒットした。1961年(昭和36年)、脱線トリオを解散し、南、佐山俊二とのトリオで再起するが、単独での活動が主となっていく。以後は『網走番外地』『不良番長』『トラック野郎』といった東映のシリーズ物映画の常連となり、『時間ですよ』や『寺内貫太郎一家』など久世光彦演出・プロデュースによるテレビドラマの常連ともなった。また、ズーズー弁をしゃべるおかしさあふれるキャラクターと、「オシャマンベ」のギャグ、裁縫の真似をするパントマイムなどでコメディアンとしても第一線で活躍した。1979年(昭和54年)、日劇公演『雲の上団五郎一座』の4代目座長に就任。1991年(平成3年)4月、日本喜劇人協会会長に就任。1993年(平成5年)、勲四等瑞宝章を受章。1998年(平成10年)、吉幾三座長公演「日本一?のお父ちゃん!」出演中に体調を崩して降板。腹水がたまり、滑舌もはっきりしない状態だったたことから都内の病院に入院。1999年(平成11年)5月20日午後9時30分、肝臓癌のため東京都世田谷区の古畑病院で死去。享年78。


由利徹(1921~1999)_f0368298_19592423.jpg

由利徹(1921~1999)_f0368298_19592568.jpg

飄々とした風貌とおとぼけギャグで一世を風靡した由利徹。1960年代後半の東映映画、クレージーキャッツの映画にはおなじみの顔であり、オカマキャラやどスケベなジジイ役などで彼が出てくると思わず拍手をしたくなる、そんな魅力あふれる喜劇役者であった。「おしゃまんべ!」「チンチロリンのカックン♪」といったギャグから、『花街の母』に乗せて演じた「裁縫パントマイム」等、由利徹の笑いは非常に洗練されていた。アチャラカ一筋に生きた喜劇役者の墓は、東京都世田谷区の森巌寺にある。墓には「奥田家之墓」とあり、右側面に墓誌が刻まれている。戒名は「喜導院称名清安信士」。

by oku-taka | 2018-12-20 20:24 | コメディアン | Comments(0)