2018年 12月 20日
松山英太郎(1942~1991)

松山 英太郎(まつやま えいたろう)
俳優
1942年(昭和17年)~1991年(平成3年)
1942年(昭和17年)、5代目河原崎國太郎の長男として東京都武蔵野市吉祥寺に生まれる。本名は、松山 英太郎(まつやま ひでたろう)。父親の5代目河原崎國太郎は前進座の女形俳優で同劇団の代表も務めていたことから、5歳で前進座の『弁天小僧』で初舞台を踏む。その後、劇団の子役として活動する一方で、1953年(昭和28年)関川秀雄監督の『ひろしま』で映画デビュー。中学校を卒業するまでに数本の映画に出演した。1960年(昭和35年)、大成高等学校を中退し、俳優座養成所に12期生として入る。同期に中村敦夫、加藤剛、成田三樹夫、樫山文枝などがいた。養成所時代から森繁久彌に注目され、1963年(昭和38年)の卒業後にテレビドラマ『七人の孫』の孫役に抜擢されて一躍人気者となる。以降、飄々とした外見ながらも下品さやくどさがなく、上品さが感じられる役作りのできる俳優として『肝っ玉かあさん』『時間ですよ』など、ホームドラマには欠かせぬ顔として大活躍。また、TBSの月曜20時からの時代劇枠『ナショナル劇場』では『大岡越前』第2部で初出演して以来、生前最後の放送となった同作第11部までの間、『水戸黄門』以外のすべての作品にレギュラー出演した。中でも『大岡越前』の猿の三次、『江戸を斬る』(西郷輝彦)主演の第2〜6部)の鼠小僧・次郎吉など、主人公をサポートする密偵役には定評があり、はまり役であった。1966年(昭和41年)にはファッション、映画、星占い等、ターゲットを若者に絞込み話題・流行を取り入れた若者向け朝のテレビ番組『ヤング720』で由美かおると組んで初代司会者として2年間担当した。 1977年(昭和52年)、俳優を引退しプロデューサーに転身を図る。フジテレビ『殺人の棋譜』などを手がけたが、1978年(昭和53年)俳優に復帰。その後は舞台やテレビでの仕事に重点を置き、森繁久彌主演の『おやじのヒゲ』シリーズでは、森繁と息の合ったところを見せた。私生活では芦田伸介の一人娘と結婚・離婚を経験。芸能関係者を中心に浮名が絶えなかったが、離婚後は独身を貫いた。1990年(平成2年)9月、東京宝塚劇場の公演『拝領妻始末』出演中に体調不良を訴え、杏林大学医学部付属病院に入院。食道癌と診断され闘病生活を送るも、4ヵ月後の1991年(平成3年)1月11日16時40分に死去。享年48。その突然の死は時代劇ファンや芸能関係者を驚嘆させ、特に親友の竹脇無我はこれがもとでうつ病を患う一因となったとされる。また、英太郎を息子のようにかわいがっていた森繁は号泣し、その死を惜しんだ。没後、闘病中の病室でファンに向けて録音したテープがマスコミに公開され、その後、母・重子が『ごめんね、英ちゃん - 食道癌で死んだわが子・松山英太郎追想』という本を出版した。


飄々とした風貌と上品な演技で数多くのホームドラマや時代劇に出演した松山英太郎。父の5代目河原崎國太郎譲りの気品さ漂う芝居はお茶の間の支持を集め、TBSのドラマ黄金期を支えた。それだけに48歳という旅立ちはあまりに早すぎ、時代劇にとって大きな損失となった。加藤剛、西郷輝彦といった並居るスターを支えた名脇役・松山英太郎の墓は、東京都調布市の明西寺にある。墓には「松山家之墓」とあり、左横に墓誌が建つ。墓誌には、父・5代目河原崎國太郎の横に「遊翠院釋淨英居士」と松山英太郎の名が刻まれている。

