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金子光晴(1895~1975)

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金子 光晴(かねこ みつはる)

詩人
1895年(明治28年)~1975年(昭和50年)


1895年(明治28年)、愛知県海東郡越治村(現在の津島市下切町)に生まれる。本名は、金子 安和(かねこ やすかず)。1897年(明治30年)、父が事業に失敗し、名古屋市小市場町(現在の中区錦三丁目)に転居。6歳のときには、土建業の清水組名古屋出張所主任だった金子荘太郎の養子となる。1900年(明治33年)、養父が京都出張所主任となったため、京都市上京区に転居。1902年(明治35年)、金子保和の名で銅駝尋常高等小学校尋常科に入学。1906年(明治39年)、養父の東京本店転任にともない、一家は銀座に転居する。4月、泰明尋常高等小学校(現在の中央区立泰明小学校)高等科に入学。1907年(明治40年)、牛込新小川町に転居し、津久戸尋常小学校(現在の新宿区立津久戸小学校)に転校する。11月には友人と渡米を企てて家出するが、やがて見つかり連れ戻される。この放浪中の不摂生により体調を崩し、翌年3月まで床に臥せる。4月、暁星中学校に入学。この頃より漢文学に関心を寄せる。1909年(明治42年)、夏休みに徒歩で房総半島を横断旅行する。一方で老荘思想や江戸文学に惹かれ、中学の校風に反発するようになる。1910年(明治43年)、200日近く学校を休んだため留年となる。この頃から現代文学に関心が向かい、小説家を志望する。1912年(明治45年)、同人誌を発行し、級友に回覧する。1914年(大正3年)、早稲田大学高等予科文科に入学。しかし、自然主義文学の空気になじめず、オスカー・ワイルドやアルツィバーシェフに影響を受ける。1915年(大正4年) 2月、早稲田大学を中退。4月に東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科に入学するが、8月には退学する。1915年(大正4年)9月、慶應義塾大学文学部予科に入学。すさんだ生活を送り、この頃のようすを「人はみな、その頃の僕を狂人あつかいにした」と述べている。その後、肺尖カタルにより3ヵ月ほど休学。1916年(大正5年) 6月、慶應義塾大学を中退。保泉良弼、良親兄弟と知り合い、触発されて詩作をはじめる。ボードレール、北原白秋、三木露風などの詩を読みふける。7月、石井有二、小山哲之輔らと同人誌『構図』を発行。10月、養父の荘太郎が死去したため、養父と財産を折半し放蕩生活を続ける。1917年(大正6年)には岐阜、関西、福江島などへ「目的のない」旅をする。一方で中条辰夫と雑誌『魂の家』を発行したが、5号で休刊。1918年(大正7年)、ウォルト・ホイットマン、エドワード・カーペンターに影響を受ける。私生活では鉱山の仕事に着手するも失敗する。川路柳虹に印刷会社を紹介してもらい、自費で詩集『赤土の家』の出版を企画する。12月、養父の友人とともにヨーロッパ遊学に旅立つ。1919年(大正8年)、金子保和の名で処女詩集『赤土の家』を刊行。1月末、イギリスのリバプールに到着する。その後、ロンドン、またベルギーのブリュッセルを訪問し、親日家で日本の工芸品のコレクターであったイヴァン・ルパージュの厚遇を得る。1920年(大正9年)、エミール・ヴェルハーレンの詩に強い影響を受ける。5月にはブリュッセルを離れてパリへ移り、1921年(大正10年) 1月にヨーロッパ旅行から帰国。その後、同人誌『人間』等に詩を発表する。1922年(大正11年)、詩誌『楽園』の編集に携わる。また、同人誌『人間』『嵐』に詩を発表。1923年(大正12年) 、ベルギーで書きためた詩を取りまとめ、フランスの象徴派や高踏派の影響を消化した詩集として『こがね蟲』を発表。1924年(大正13年)、小説家志望の森三千代と知り合い、恋愛関係になる。7月には三千代が妊娠のため東京女子高等師範(現在のお茶の水女子大学)を退学し、室生犀星の仲人により結婚する。1925年(大正14年)、長男・乾が誕生。『ブェルハレン詩集』、『近代仏蘭西詩集』、モーリス・ルブラン『虎の子』など翻訳で生計を立てるが、困窮した生活が続く。1926年(大正15年)、夫婦で上海に1ヵ月ほど滞在。魯迅らと親交をかわす。1927年(昭和2年)、国木田虎雄夫妻と上海に行き3ヵ月ほど滞在。横光利一とも合流して交流を深める。1928年(昭和3年)、小説『芳蘭』を第1回改造懸賞小説に応募。横光利一の支持を得たものの次点となり、これを機に小説から離れる。9月、美術評論家の土方定一と恋愛関係となっていた三千代との関係を打開するため、アジア・ヨーロッパの旅に出発。長崎から上海に渡り、その後上海で風俗画の展覧会を開いて旅費を調達し香港へ渡る。のちにシンガポールでも風景小品画展を開き、ジャカルタ、ジャワ島へ旅行。11月、一人分のパリまでの旅費が貯まり、三千代を先に旅立たせる。1930年(昭和5年)1月、パリで三千代と合流し、額縁造り、旅客の荷箱作り、行商等で生計をつなぐ。1931年(昭和6年)、パリを離れ、ブリュッセルのイヴァン・ルパージュのもとへ身を寄せる。日本画の展覧会を開いて旅費を得て、三千代を残しシンガポールへ渡る。1932年(昭和7年)、4ヵ月ほどマレー半島を旅行する。三千代は4月に単身で帰国し、6月には光晴も帰国。実妹の設立した化粧品会社(モンココ洗粉本舗)に入社して生活費を得る。1935年(昭和10年)9月、日本の風俗や家族制度、天皇中心の権力支配、戦争を痛烈に否定した詩集「鮫」を『文藝』に発表。12月には『中央公論』に「灯台」を発表する。この頃から喘息の発作で苦しむことが多くなる。1937年(昭和12年)12月、三千代と中国北部を旅行し、日本軍の大陸進出に対する認識を深くする。1940年(昭和15年)、『マレー蘭印紀行』を刊行。1941年(昭和16年)、アンリ・フォコニエ『馬来』、『エムデン最期の日』を翻訳。1943年(昭和18年)、『マライの健ちゃん』を刊行。1944年(昭和19年)、長男の乾に召集令状が届く。乾を戦地に送らせないため、気管支カタルを病んでいた乾を雨の中に立たせたりして発作を誘発しようとし、召集を免れる。1945年(昭和20年)、乾に再度召集令状が届くが、診断書を持って係官と掛け合い延期させる。1946年(昭和21年)、『コスモス』の同人となる。1948年(昭和23年)、詩人志望の大河内令子と恋愛関係になり、この後、三千代との間で離婚と入籍を繰り返す。4月、詩集『落下傘』、9月には詩集『蛾』を刊行。1949年(昭和24年)、 詩集『女たちのエレジー』、『鬼の児の唄』を刊行。1952年(昭和27年) 、詩集『悪の華』、『人間の悲劇』を刊行。1954年(昭和29年)には『人間の悲劇』で第5回読売文学賞を受賞する。1955年(昭和30年)、詩集『非情』を刊行。1956年(昭和31年)、詩集『水勢』を刊行。本作を最後に詩作を一旦休止する。1957年(昭和32年)、自伝『詩人』を刊行。翌年には『日本人について』、『日本の芸術について』を刊行し、評論活動に力を入れる。1964年(昭和39年)、同人雑誌『あいなめ』に参加し、中心的存在となる。1965年(昭和40年)、詩集『IL(イル)』を刊行し、藤村記念歴程賞を受賞。1969年(昭和44年)、軽い脳溢血により片腕が利かなくなり、2ヵ月ほど河北病院に入院。しかし、創作意欲は衰えることはなく、1972年(昭和47年)には『風流尸解記』で芸術選奨文部大臣賞を受賞する。1975年(昭和50年)6月30日午前11時30分、気管支喘息による急性心不全のため武蔵野市吉祥寺本町の自宅で死去。享年79。

金子光晴(1895~1975)_f0368298_19125005.jpg

権力に立ち向かい、心の赴くままに生きた反骨の詩人・金子光晴。特に反戦の詩人として名高く、息子の持病をわざと悪化させて兵役を免れさせた話は有名である。1937年(昭和12年)の盧溝橋事件に際し「戦わねばならない 必然のために、戦わなければならない 信念のために 一そよぎの草も動員されねばならぬのだ」と詩を詠んでいた金子は、その後の中国への旅行で日本軍の大陸進出に危惧を感じたのか、途端に日本の社会体制への批判を込めた詩を発表するようになった。果ては明治時代から第二次世界大戦後にいたる日本人の生き方についても批判し始め、近代化路線に進む日本に警鐘を鳴らし続けた。そんな金子であったが、晩年は「女性賛美の詩人」として女性の体やエロスへの執着を堂々と露わにし、ユーモアあふれる飄々とした文化人として注目を浴びた。「女のいふことばは、いかなることもゆるすべし」と説いた金子光晴の墓は、東京都八王子市の上川霊園にある。墓には直筆による「金子光晴 森三千代」と刻まれているのみで墓誌はない。


by oku-taka | 2018-12-16 17:46 | 文学者 | Comments(0)