2018年 11月 17日
梅原龍三郎(1888~1986)
梅原 龍三郎(うめはら りゅうざぶろう)
画家
1888年(明治21年)~1986年(昭和61年)
1888年(明治21年)、京都府京都市下京区に生まれる。生家は染物問屋であり、幼少期は友禅染めの絵師が身近にいる環境で育った。京都府立第二中学校(現在の京都府立鳥羽高等学校)を中退し、伊藤快彦の画塾・鍾美会で学んだ後、浅井忠が主催する聖護院洋画研究所(現在の関西美術院)に入った。1908年(明治41年)、後に美術史家となる田中喜作と共にフランスへ留学。翌年、帰国する高村光太郎のアトリエを引き継いでパリに滞在し、アカデミー・ジュリアンに通う。さらに、ルノワールの指導を受ける機会を得て、1910年(明治43年)には知人の有島生馬を通してルノワールやパリの芸術についてを雑誌『白樺』に寄稿している。ルノワールからは色彩感覚の天分を高く評価された。1913年(大正2年)、帰国。白樺社の主催により東京神田で個展「梅原良三郎油絵展覧会」を開催。このとき、白樺社同人の武者小路実篤・志賀直哉・柳宗悦らの知遇を得た。その後、ヨーロッパで生まれた油絵を日本人の感性に馴染ませることに苦闘し、日本人女性をモデルとした日本独自の油絵確立に力を注ぐ。1914年(大正3年)、文展に不満ある進歩的な洋画家たちがつくった団体「二科会」の設立に参加。1922年(大正11年)、春陽会の設立に参加。数年後に春陽会を去ると、1925年(大正14年)には土田麦僊の招きで国画創作協会に合流し、国画創作協会洋画部(通称「第二部」)を設置した。3年後に協会が解散することになると、洋画部は独立して国画会となった。1935年(昭和10年)、帝国美術院(現在の日本芸術院)会員となる。1944年(昭和19年)には帝室技芸員となった。同年、東京美術学校(現在の東京芸術大学)の教授に就任。1952年(昭和27年)、日本が主権を回復し海外渡航が再びできるようになると、東京美術学校教授を辞任して渡欧。ヴェネツィア・ビエンナーレの国際審査員を務めた。同年、文化勲章を受章。1957年(昭和32年)、日本芸術院会員を皮きりに様々な役職を辞し、以後は渡欧を繰り返して自由な立場から制作に励んだ。1973年(昭和48年)、フランス芸術文化勲章コマンドール章を受章。1986年(昭和61年)1月16日、肺炎による心不全のため慶応病院にて逝去。 享年97。
天性の色彩感覚で日本独自の油絵を確立した梅原龍三郎。力強いエネルギッシュな筆さばきと眩く鮮烈な色彩で絢爛たる作品を世に送り出し続けた。晩年は「ピカソのように露骨な春画を描いてもいやらしいと思われない作品を描きたい」と語っていた梅原だが、90歳を超えてもなお衰えぬ創作意欲にただただ感服した。約一世紀にわたり美の世界を追求した男の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。「和」と刻まれた洋形の墓の横に建てられた食パン形の墓が梅原の墓であり、そこには梅原龍三郎と妻・艶の墓誌が刻まれている。左にはフランス文学者で若くして世を去った長男・成四の墓が建てられている。