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大岡昇平(1909~1988)

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大岡 昇平(おおおか しょうへい)

作家
1909年(明治42年)~1988年(昭和63年)


1909年(明治42年)、東京市牛込区新小川町(現在の東京都新宿区)に生まれる。1919年(大正8年)、従兄に勧められ「赤い鳥」に童謡を投稿し入選。1921年(大正10年)、府立一中受験に失敗し青山学院中学部に入学。1925年(大正14年)、成城第二中学校4年に編入。1926年(大正15年)、成城中学校が7年制の成城高等学校となったため、高等科文科乙類に進学。1928年(昭和3年)、村井康男を通じて小林秀雄を紹介され、小林からフランス語の個人教授を受ける。小林を通して河上徹太郎、中原中也、中村光夫らと知り合い、昭和文学の担い手で優れた文学者たちと文学的素養を蓄積する幸運に恵まれる。1929年(昭和4年)、成城高等学校を卒業し、京都帝国大学文学部文学科に入学。在学中に河上や中原らと同人雑誌「白痴群」を創刊。1932年(昭和7年)、京都帝国大学を卒業。1933年(昭和8年)、スタンダールの「パルムの僧院」を読み、以後スタンダールに傾倒する。国民新聞、帝国酸素、川崎重工業に勤務する傍ら、「作品」「文学界」等にスタンダールの翻訳・研究や評論文を発表する。1944年(昭和19年)、教育召集で東部第二部隊に入営。7月にはフィリピンのマニラに到着し、第百五師団大藪大隊、比島派遣威一〇六七二部隊に所属。ミンドロ島警備のため、暗号手としてサンホセに赴いた。しかし、1945年(昭和20年)1月に米軍の捕虜になり、レイテ島タクロバンの俘虜病院に収容される。敗戦後の12月に帰国し、家族の疎開先の兵庫県明石市大久保町に着いた。1949年(昭和24年)、捕虜生活を中心に描いた『俘虜記』を発表。同作で横光利一賞を受賞した。同年、中村光夫、福田恆存、吉田健一らと「鉢の木会」を結成。1950年(昭和25年)、姦通、虚栄、欲望などのからむ心理模様をフランスの小説『ボヴァリー夫人』に倣って書いた『武蔵野夫人』を発表。禁欲的な恋愛小説として話題となりベストセラーを記録した。1952年(昭和27年)、戦場を離脱して限界状況に追込まれた兵士の孤独と生への執着を掘下げた『野火』で読売文学賞を受賞。1958年(昭和33年)、文芸季刊誌『声』を刊行。若くして文壇芸術派の指導的存在となった。1961年(昭和36年)、銀座の文壇バーのホステスで愛人でもあった坂本睦子をモデルとした『花影』で毎日出版文化賞、新潮社文学賞を受賞。1965年(昭和40年)、『将門記』を発表。以降、戦闘と敗走の体験を核とした歴史小説にも着手し、井上靖や森鴎外の歴史小説を批判して文壇や学界に重要な問題を投げかけた。1971年(昭和46年)、レイテ島における戦闘経過を膨大な資料を駆使して克明に再現した大作『レイテ戦記』を刊行。翌年には同作で毎日芸術賞を受賞した。1974年(昭和49年)、『中原中也』で野間文芸賞を受賞。1976年(昭和51年)、朝日文化賞を受賞。1978年(昭和53年)、推理小説的の形を借りて法と犯罪の相関を追及し、現代の裁判の問題をえぐった『事件』で日本推理作家協会賞を受賞。1988年(昭和63年)12月25日午後3時12分、心臓病検査のため入院中の順天堂大学医学部附属順天堂医院で脳梗塞併発のため死去。享年79。


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『俘虜記』『レイテ戦記』といった戦争もの、創作のバックボーンである仏文学、愛読して果ては自分も執筆に取り組んだ推理小説など幅広い分野に関心を抱き、文壇きってのディレッタントだった大岡昇平。しかし、それ以上に大岡昇平という人物は文学界きっての論争家であった。「ケンカ大岡」の異名があるほど論争を繰り返し、井上靖、海音寺潮五郎、松本清張、江藤淳、果ては森鴎外までやり玉に挙げ、国文学者と論争になった。『レイテ戦記』のときは選考委員の舟橋聖一との軋轢によって野間文芸賞を辞退した。生前「NOと言い続けるのが文学者の役割。俺は言うね」と語っていた大岡昇平。彼の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「大岡家之墓」とあるのみで墓誌はない。
by oku-taka | 2018-11-17 15:11 | 文学者 | Comments(0)