人気ブログランキング | 話題のタグを見る

古賀さと子(1940~1996)

古賀さと子(1940~1996)_f0368298_15285840.jpg

古賀 さと子(こが さとこ)

童謡歌手
1940年(昭和15年)~1996年(平成8年)


1940年(昭和15年)、東京市板橋区に生まれる。本名は、古賀 達子。幼少期の頃から歌が好きな少女であり、4歳の頃には疎開先の納屋の窓から童謡をよく歌い、道行く人たちが立ち止まってその可愛らしい歌声に聞き惚れていた。さらに身振り手振りをつけながら歌うと、たちまち拍手が沸き起こっていた。それを見た母親はさと子を叱ることもあったが、ピアノ調律師だった父はかつて歌手を夢見ていたこともあってか、さと子の才能にいち早く気付き、自宅のピアノでさと子に個人レッスンをしたこともあった。小学校2年生のとき、父の仕事仲間の紹介で「さくら子供会」という合唱団に入る。その後、作曲家・保田正に師事し、1948年(昭和23年)ビクターから童謡歌手としてデビュー。大きなリボンがトレードマークの愛くるしい姿でたちまち人気者となり、『ひばりと麦笛』(1951年/昭和26年)、『ママのおひざ』(1951年/昭和26年)、ディズニーアニメ「バンビ」をモチーフとした『子鹿のバンビ』(1952年/昭和27年)などのヒットを次々に飛ばす。また、朝日放送「クレハホームソング」で『こけしのちびっこ』を歌い、芸術祭童謡賞を受賞した。この頃のさと子はラジオやテレビに出演するなど多忙な日々を送り、学校の講堂やデパートの屋上の特設ステージに出るとたくさんのファンがつめかけ、黄色い声援が飛び交っていた。当時の少女向け雑誌ではグラビアに多数取り上げられ、人気投票には松島トモ子、近藤圭子とともに常に上位にあがっていた。1955年(昭和30年)、松竹と契約。『あゝ洞爺丸』『お母さんの黒板』『オーケストラの姉妹』などに出演したが、1959年(昭和34年)の『朝やけ雲の決闘』を最後に松竹を退社。その後、上野学園高等学校音楽科に進学した。1970年(昭和45年)、シャンソン歌手に転向。同年、東京都渋谷のジァン・ジァンでリサイタルを開催し、童謡をはじめシャンソンなどを披露する。以降、シャンソン歌手として舞台などでライブ活動をするようになるが、1972年(昭和47年)年頃に歌手活動を休止。その後、慢性肝炎により療養生活を送るようになる。1996年(平成8年)5月に容体が急変し、25日に入院先の病室で息をひきとった。享年55。その死については長らく公にされず、 2004年(平成16年)に姉でエッセイストの田原節子の著書『最期まで微笑みを』で明らかにされた。本書によると、付き添いの者から聞いた話として、さと子が亡くなる直前、ナースステーションに近い病室に運び込まれたとき「ここはどこ? あなたはだあれ?」と柔らかな声で歌うように語りかけたという。これがさと子の最期の言葉となった。


古賀さと子(1940~1996)_f0368298_15285448.jpg

古賀さと子(1940~1996)_f0368298_15285760.jpg

古賀さと子(1940~1996)_f0368298_15285729.jpg

古賀さと子(1940~1996)_f0368298_15285570.jpg

古賀さと子(1940~1996)_f0368298_15285638.jpg

戦中から戦後にかけて巻き起こった童謡ブーム。その中でも、愛らしいリボンのスタイルで人気を博したのが古賀さと子。少女特有の甲高い声で歌った「子鹿のバンビ」は彼女の代表曲となり、近藤圭子、小鳩くるみ、伴久美子と共に戦後の童謡黄金期を支えた。川田正子の引退によって童謡ブームは終焉を迎え、多くの童謡歌手たちは自然とフェードアウトしてしまった。そのため、古賀さと子、伴久美子、渡辺典子ら童謡歌手は、若くしてこの世を去りながらもその訃報が報じられることがなかった。戦後の子供たちに希望を与えた古賀さと子の墓は、東京都東村山市の小平霊園にある。墓には「古賀家之墓」とあり、背面に墓誌が彫られている。右側には姉の夫・田原総一朗デザインによる碑「古賀さと子の思い出」が置かれており、台座裏面には彼女の略歴が刻まれている。戒名は「麗峰院芳響妙達大姉」。なお同墓にはさと子の姉で田原総一朗の妻である田原節子も埋葬されている。

by oku-taka | 2018-10-20 17:46 | 音楽家 | Comments(0)