2018年 10月 20日
山階芳麿(1900~1989)
山階 芳麿(やましな よしまろ)
鳥類学者
1900年(明治33年)~1989年(平成元年)
1900年(明治33年)、皇族・山階宮菊麿王の第2子として東京市麹町区に生まれる。幼い頃から鳥に興味を持ち、6歳の誕生日に一つがいのオシドリの剥製を贈られる。 1907年(明治40年)、学習院初等科に入学。学習院中等科のとき、明治天皇からの沙汰により陸軍中央幼年学校予科に入る。陸軍中央幼年学校本科、陸軍士官学校を経て陸軍少尉に任官。砲兵将校となる。 1920年(大正9年)、勲一等旭日桐花大綬章を受章。皇室の内規に従って臣籍降下を願い出て、皇族会議で認められる。大正天皇から山階の家名と侯爵の爵位を与えられ、従四位に叙せられる。陸軍砲兵中尉となるが、動物学研究の望みを断ち難く、軍を退役する。1929年(昭和4年)、東京帝国大学(現在の東京大学)理学部動物学科選科に入学。2年にわたって動物学の基礎を学ぶ。1931年(昭和6年)、東京帝国大学理学部動物学科選科を修了。 1932年(昭和7年)、アジア・太平洋地域の鳥類標本収集を目的に「山階家鳥類標本館」を設立。1939年(昭和14年)、北海道帝国大学(現在の北海道大学)の教授であった小熊捍の指導を受け、鳥類の雑種における不妊性の研究に取り組む。1942年(昭和17年)、文部省から財団法人としての認可を得て「財団法人山階鳥類研究所」を設立。同年、「鳥類雑種の不妊性に関する論文」によって北海道大学から理学博士号を授与される。1946年(昭和21年)、貴族院議員を辞職。間もなく公職追放となる。その後、鳥類の染色体の研究に取り組み、1947年(昭和22年)に鳥類の分類に染色体による分類法を導入して、国内外から高い評価を得た。1949年(昭和24年)、関連論文の集大成『細胞学に基づく動物の分類』を上梓し、1950年(昭和25年)に日本遺伝学賞を受賞した。一方、戦後のタンパク質不足により文部省から「ニワトリの増殖」について研究委託を受け、多産で肉質がよいニワトリの品種改良にも取り組んだ。その他、バリケンとアヒルの雑種ドバンの増殖研究にも力を入れた。鳥類の保護にも大きな熱意を注ぎ、日本鳥学会会頭、日本鳥類保護連盟会長、国際鳥類保護会議副会長、同アジア部会長等を歴任した。1966年(昭和41年)、紫綬褒章を受章。1977年(昭和52年)、鳥学の世界のノーベル賞とも言われるジャン・デラクール賞を受賞。1978年(昭和53年)、「世界の生物保護に功績があった」としてオランダ王室から第1級ゴールデンアーク勲章を受章。1986年(昭和61年)、15年がかりで9021種に及ぶ世界の鳥に和名をつけた『世界鳥類和名辞典』を出版。1989年(平成元年)1月28日、死去。享年88。
中西悟堂と並ぶ鳥類研究の第一人者、山階芳麿。昭和天皇の従兄弟として皇族に生まれながら臣籍降下を願い出、その生涯を鳥類研究に捧げた。戦前は鳥類分類に細胞遺伝学を導入という功績を残し、戦後は野鳥保護運動に力を入れた。生前「鳥の姿が見えなくなったら人間も危ない」と語っていた山階芳麿の墓は、東京都あきる野市の西多摩霊園にある。洋形の墓には「山階家」とある。