人気ブログランキング | 話題のタグを見る

安部公房(1924~1993)

安部公房(1924~1993)_f0368298_23293956.jpg

安部 公房(あべ こうぼう)

作家
1924年(大正13年)~1993年(平成5年)

1924年 (大正13年) 、東京府北豊島郡滝野川町 (現在の東京都北区西ヶ原) に生まれる。本名は、安部 公房(あべ きみふさ)。1925年 (大正14年)、生後8ヵ月で家族と共に満洲に渡り、奉天の日本人地区で幼少期を過ごした。小学校での実験的な英才教育、「五族協和」の理念は、後に安部の作品や思想へ大きな影響を及ぼした。1937年 (昭和12年) 4月、旧制奉天第二中学校に入学。奉天の実家にあった新潮社の世界文学全集や第一書房の近代劇全集などを読み、特にエドガー・アラン・ポーの作品に感銘を受ける。1940年 (昭和15年)、中学校を4年で飛び級して卒業。日本に帰国し旧制成城高等学校 (現在の成城大学) 理科乙類に入学。ドイツ語教師・阿部六郎 (阿部次郎の実弟) からの影響で戯曲や実存主義文学を耽読する。在学中、高木貞治の『解析概論』を愛読し、成城始まって以来の数学の天才と称された。 同年冬に軍事教練の影響で風邪をこじらせ肺浸潤を発症。一時休学し、奉天の実家に帰り療養。恢復を待って1942年 (昭和17年) 4月に復学。同年12月9日、エッセイ『問題下降に依る肯定の批判』を書き、翌年2月に発行された高校の校友会誌「城」の第40号に掲載される。これが安部の活字化された最初の作品となった。1943年 (昭和18年) 3月、戦時下のため繰上げ卒業。同年10月、東京帝国大学医学部医学科に入学。1944年(昭和19年)、文科系学生の徴兵猶予が取り消されて次々と戦場へ学徒出陣していく中、「次は理科系が徴兵される番だ」という想いと「敗戦が近い」という噂から家族の安否を気遣い、同年末に大学に無断で満洲に帰る。1945年 (昭和20年)、奉天で開業医をしていた父の手伝いをしていた頃に召集令状が届くが、出頭前に8月15日の終戦を迎えた。同年冬、発疹チフスが大流行して、診療にあたっていた父が感染して死亡する。1946年 (昭和21年)、敗戦のために家を追われ、奉天市内を転々としながらサイダー製造などで生活費を得る。同年の暮れに引き揚げ船にて帰国。北海道の祖父母宅へ家族を送りとどけたのち帰京する。1947年 (昭和22年) 、満洲からの引き揚げ体験のイメージに基づく『無名詩集』を自費出版する。1948年 (昭和23年)、東大医学部を卒業。ただし、父の死のショックもあってインターンを放棄したことから、医師にならないことを前提とした条件付きの卒業単位付与であり、医師国家試験は受験しなかった。同年、『粘土塀』と題した処女長篇を成城高校時代のドイツ語教師・阿部六郎のもとに持ち込む。阿部はこの作品を文芸誌『近代文学』の編集者の1人である埴谷雄高に送り、埴谷はただちに安部の才能を認めたが、当時の「近代文学」の編集は合議制であり、埴谷は同人の平野謙に却下されることを危惧し、他の雑誌へ安部を推挙した。その結果、『粘土塀』の内の「第一のノート」が翌年2月の『個性』に掲載された。これがきっかけとなり、安部は埴谷、花田清輝、岡本太郎らが運営する「夜の会」に参加。埴谷、花田らの尽力により、1948年(昭和23年)に『粘土塀』は『終りし道の標べに』と改題され、真善美社から単行本で上梓された。1949年 (昭和24年) 、初めてシュルレアリスムの手法を採り入れた短篇小説『デンドロカカリヤ』を発表。 1950年 (昭和25年)、勅使河原宏や瀬木慎一らと共に「世紀の会」を結成。同年、『赤い繭』で戦後文学賞を受賞。1951年 (昭和26年)、「近代文学」2月号に短篇『壁 - S・カルマ氏の犯罪』を掲載。同作は第25回芥川賞の候補となり、選考委員の宇野浩二からは酷評されたものの、川端康成と瀧井孝作の強い推挙が決め手となり受賞となった。1952年 (昭和27年) 、江馬修、徳永直、野間宏、藤森成吉らとともに『人民文学』に参加。『人民文学』が『新日本文学』と合流した後は新日本文学会に移った。1957年 (昭和32年) 、花田清輝、佐々木基一、関根弘、野間宏、勅使河原宏、長谷川龍生らと「記録芸術の会」を結成。11月、小説『棒』を戯曲化したラジオドラマ『棒になった男』が放送され、芸術祭奨励賞を受賞した。1958年 (昭和33年) 、戯曲『幽霊はここにいる』を劇団俳優座により上演し、岸田演劇賞を受賞。1959年 (昭和34年)、ラジオドラマ『兵士脱走』を和田勉の演出によりテレビドラマ化した『日本の日蝕』がNHKにて放送。同作で芸術祭奨励賞を受賞。1960年 (昭和35年) 、ルポルタージュの手法を採り入れたテレビドラマ『煉獄』で2度目の芸術祭奨励賞を受賞。1961年 (昭和36年)、『煉獄』の脚本を改作した映画『おとし穴』(勅使河原宏監督作品)でシナリオ作家協会賞を受賞。1962年 (昭和37年)、昆虫採集の途次に迷い込んだ村に閉じ込められ、そこから脱出を図ろうとする教師とそれを阻もうとする村人を描いた『砂の女』を発表。翌年、同作で読売文学賞を受賞。以後は創作活動の比重を書き下ろし長篇に移し、都市に住む人々の孤独と他者との通路の回復を主たるテーマとして、次々と実験精神あふれる作品を発表し、国際的な評価を得るようになる。1964年 (昭和39年)、 事故で顔を失った男が引き起こす騒動を描いた『他人の顔』を発表。1967年 (昭和42年) 、失踪者を追う興信所員を主人公とし、両者が入れ替わる顛末を描いた『燃えつきた地図』を発表。同年、戯曲『友達』で谷崎潤一郎賞を受賞。1968年 (昭和43年) 、『砂の女』でフランス最優秀外国文学賞を受賞。1972年 (昭和47年)、段ボール箱を被ったまま生活する男を描いた小説『箱男』を発表。1973年 (昭和48年)、自身が主宰する演劇集団「安部公房スタジオ」を発足させ、本格的に演劇活動をはじめる。発足時のメンバーは、新克利、井川比佐志、伊東辰夫、伊藤裕平、大西加代子、粂文子、佐藤正文、田中邦衛、仲代達矢、丸山善司、宮沢譲治、山口果林の12名で、以後安部公房スタジオは堤清二の後援のもとで渋谷西武劇場を本拠地として活動する。1975年 (昭和50年) 5月14日、アメリカ・コロンビア大学から名誉人文科学博士称号を授与される。1977年 (昭和52年)、病院を舞台とし、奇妙な病気にかかった患者とその治療に当たる奇妙な医者たちを描いた『密会』を発表。同年、アメリカ芸術科学アカデミーの名誉会員に推挙される。1979年 (昭和54年) 、安部公房スタジオを率いて渡米。セントルイス、ワシントン、ニューヨーク、シカゴ、デンバーで行なった『仔象は死んだ』の公演はその斬新な演劇手法が反響を呼んだ。1980年以降は文壇との付き合いをほとんど断ち、箱根の芦ノ湖を見下ろす高台に建てた山荘を仕事場として独居するようになる。1982年 (昭和57年)、自身の体調不良を理由に安部公房スタジオの活動を休止。1984年 (昭和59年) 11月、シェルター構想などをモチーフとしてワープロで執筆した初めての小説『方舟さくら丸』を発表。1991年 (平成3年)、奇病にかかった患者を主人公とした小説『カンガルー・ノート』を発表。結果としてこれが最後の小説となった。この頃、安部はクレオールに強い関心を寄せ、それをテーマとした長篇『飛ぶ男』の執筆に取り組んでいたが、1992年 (平成4年) 12月25日深夜、執筆中に脳内出血による意識障害を起こし、東海大学病院に入院。1993年 (平成5年) 1月16日には経過良好で退院したが、自宅療養中にインフルエンザを発症し、1月20日に多摩市の日本医科大学多摩永山病院に入院。1月22日には解熱し一時的に恢復したものの、就寝中の同日午前7時1分、急性心不全により死去。享年68。


安部公房(1924~1993)_f0368298_23293896.jpg

戦後の日本を代表する作家の一人、安部公房。その作品は、埴谷雄高が高く評価したことからわかるように、前衛かつ哲学的で難解なものが多い。その独特な思考法や舞台的な世界描写がそうした思いを抱かせるのか、結局最後まで読んでも何を訴えたいのか理解できない。それなのに読み終えた後は充足感を味わうことができる。実に摩訶不思議な作家で、そうした麻薬作用に近いものを得ることができるからなのか、今なお一定のカルトファンは獲得している。生前最もノーベル賞に近い作家と言われていた安部公房の墓は、東京都八王子市の上川霊園にある。かつては台石に木柱墓が建てられていたという「安部家之墓」も数年前に朽ち果て、今は高さ40センチほどの小さな緑岩石が置かれているのみである。墓誌もなければ主を示す文字もない、実に安部公房らしい墓である。

by oku-taka | 2018-10-17 00:10 | 文学者 | Comments(0)