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青山孝(1951~2009)

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青山 孝(あおやま たかし)

歌手
1951年(昭和26年)~2009年(平成21年)


1951年(昭和26年)、佐賀県佐賀市高木瀬町に生まれる。本名は、城下 孝行(しろした たかゆき)。小学校4年生の時、父親の仕事の都合で神奈川県川崎市東渡田(現在の川崎区田島町)へ移住。その後、学校での成績が優秀だった為、小学校の校長先生の推薦により 東京都港区高輪の高輪中学校に入学。ここでも優等生だった。中学3年生の時、東京音楽学院に合格。特待生として奨学金を貰いながら1967年(昭和42年)まで在籍し、スクールメイツにも選抜された。その姿がジャニー喜多川の目に留まり、1967年(昭和42年)ジャニーズ事務所に入所。ジャニーズのバックダンサーとして結成されたアイドルグループ・フォーリーブスに小学生だった永田英二に代わって加入した。その際、「ジャニーズ事務所に一週間通い詰め、その熱意と根性を認められてジャニー喜多川より入所を認めてもらった」というストーリーが作られて世間に発表された。1968年(昭和43年)、江木俊夫(トシ坊)、おりも政夫(マー坊)、北公次(コーちゃん)、青山孝(ター坊)の4人でシングル『オリビアの調べ』でデビュー。グループ名は四つ葉のクローバーにちなみ、三枚目キャラクターのトシ坊、児童劇団時代からファッションモデルを務めグループの進行役だったマー坊、歌とアクションで存在感をみせるコーちゃん、そして東京音楽学院の特待生でグループの音楽的なリーダーのター坊と、「メンバー4人全員がスター」というコンセプトで、歌って踊れる新しいタイプのアイドルグループの先駆けとなった。1970年(昭和45年)には『あしたが生まれる』でNHK紅白歌合戦に初出場。以来、7年連続で出場を果たした。以降も『地球はひとつ』(昭和46年)、『急げ!若者』(昭和49年)、『踊り子』(昭和51年)、『ブルドッグ』(昭和52年)とヒットを連発。端整な顔立ちと伸びのある明るい歌声が持ち味で、コーちゃんと人気を二分した。1971年(昭和46年)、現役アイドルながら日本大学芸術学部音楽学科声楽コースを受験して話題となったが、惜しくも不合格。その後も芸能活動と受験勉強を両立しながら2浪を経て、1973年(昭和48年)に3度目の受験で日本大学芸術学部演劇学科に入学した。1976年(昭和51年)、自身が作詞・作曲した『一人暮し』を梓みちよに提供。1977年(昭和52年)、元ミス・ユニバース日本代表でジャニーズ事務所の第2号女性タレントだった嶋田じゅんと結婚。披露宴は東京で開かれ、その模様はフジテレビ『ラブラブショー』でも放送された。一方、フォーリーブスの人気は既に下降し始めており、7年連続出場したNHK紅白歌合戦に落選。1970年代中期頃から後進や後輩のアイドルやグループへと人気が移行し、それまではグループや個人(青山、北)で雑誌などの人気投票の上位に位置することが多かったが、次第に上位から後退。比例するように雑誌記事やグラビアも減少していった。コンサートやリサイタルの公演数も減り、ツアーもなくなり、ジャニーズ事務所の後輩やジュニアとの共演や二部構成の割合が増加。世間の関心がニューミュージック勢に比重が移っていくのと比例して、人気やレコードセールス及び所属するジャニーズ事務所の状況も低迷する。新御三家を除いた男性アイドル冬の時代に突入し、個人での活動の比重も高くなり、それぞれの芸能活動における方向性の違いも顕著になっていった。グループよりも、ソロのタレント活動が好調で複数のレギュラー番組を抱えたおりもを見る機会の方が増えていき、メンバーの平均年齢も20代後半となり、アイドルとしての活動に限界を迎えるようになっていった。1978年(昭和53年)7月21日、最後のシングル『THE END-思いがけず出会ったら-/夢のかけら』をリリース。1ヵ月にわたる全国ラストツアーを行い、同年8月31日、新宿の東京厚生年金会館のステージにて解散した。1979年(昭和54年)、映画『わが青春のイレブン』の主題歌『季節の中の魚たち』をソロでリリース。しかし、同年内にジャニーズ事務所を退社した。 その後、赤坂で喫茶店をオープン。 1988年(昭和63年)にはおりも政夫と共同で静岡県浜松市中区肴町のビルにショーパブ「ステージバー・グリッター」を開店。翌年には、同ビル4Fに音楽学校「タレント・ミュージック・スクール」も開いた。これら全ての店の出資者はジャニーズ事務所であったが、音楽学校はすぐに閉校。ショーパブも3年で閉店となった。その後は、東京都町田市で妻の嶋田じゅんと共に麻雀荘「青山」の経営、静岡県沼津市でパブのマスター、ホットドッグの店をフランチャイズ展開する飲食店チェーン会社「ノン・エンタープライズ」の代表取締役などを務めた。1996年(平成8年)、バースデーディナーショーを開催。 同年12月にはクリスマスディナーショーを行い、歌手活動を再開させる。2002年(平成14年)、フォーリーブスを再結成。同時に青山孝から青山孝史に改名した。2008年(平成20年)、フォーリーブスの全国ツアーの真最中であった10月中旬、肝臓がんである事が発覚。すぐに入院して抗がん剤治療を開始した。メンバーたちには翌11月後半に告知。一時は腹水が10kg以上もたまるなどの一進一退の病状で、青山の体調を心配したメンバーはツアーの中止を考えた。しかし、青山は「4人揃わなければフォーリーブスじゃない」とツアーの続行を強く訴えた為、メンバーも青山の意気込みに押されてツアー続行を決意。そして、入院先の病院を抜け出す形で出演した11月24日の中野サンプラザでのコンサートにて、癌である事は伏せながらも「肝臓の病気が酷くなった」という旨をファンに対して発表した。以降もコンサートがある度に病院を抜け出し、2回ステージに立ったが、病状の悪化により、2時間のステージで30分出演するのがやっとの状態だった。2009年(平成21年)1月16日、「肝臓がん」である事を公式発表。公式発表の僅か12日後の1月28日午前7時、肝がんで死去。享年57。


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昭和40年代の歌謡界に颯爽と登場したアイドルグループ、フォーリーブス。その中でも高い歌唱力を持つ青山孝は、歌唱面と音楽面においてのリーダー的存在を担っていた。フルコーラスをソロボーカルで担当したシングルA面曲が存在するのは彼だけであり、フォーリーブスの楽曲の音楽性の高さはター坊に負うところが大きい。それだけに、解散後の活動は悲しいものであった。フォーリーブスが再結成し、ようやく好きな音楽をできるようになったというのに、肝臓癌というのはあまりに酷すぎる運命である「短い命ならせめて散る時ぐらい美しく散りたい」、まるでター坊の人生は『急げ!若者』のような人生であったと思えてならない。初期のジャニーズ事務所を支え、アイドル黄金時代の先頭を走ったフォーリーブス・青山孝の墓は、東京都八王子市の東京霊園にある。洋型の墓には「城下家之墓」とあり、右側に墓誌が建つ。戒名は「健唱院与楽青山孝俊居士」

by oku-taka | 2018-10-16 19:16 | 音楽家 | Comments(0)