2018年 10月 15日
北島忠治(1901~1996)

北島 忠治(きたじま ちゅうじ)
明治大学ラグビー部監督
1901年(明治34年)~1996年(平成8年)
1901年(明治34年)、新潟県上越市安塚区安塚町に生まれる。数校の学校を経て有恒学舎中を卒業し、1913年(大正2年)神楽坂の伯母を頼り上京。幼少期から喧嘩っ早く、一時は「坂の忠治」の異名をとった。1921年(大正10年)、旧制明治大学専門部に入学。元は相撲部出身で、神楽坂の筑土八幡神社でよく練習をしていた。大学2年生のとき、メンバーが足りないとの理由で助っ人を頼まれたことがきっかけで、相撲部からラグビー部に転部。1925年(大正14年)、明治大学専門部を卒業したが、夢中になったラグビーを続けるために明治大学法学部へ再入学。1926年(大正15年)から2年間、明治大学のスクラムセンター(今のフッカー)として活躍した。1929年(昭和4年)、明治大学法学部を卒業。卒業と同時に明治大学ラグビー部監督に就任。当時の大学ラグビー界最強であった慶應大学に勝つことを目標に、「最後まで諦めるな」「躊躇せず突進せよ」「勇猛果敢たれ」「全速力でプレーせよ」の4つの合言葉のもと、練習以上の激しい肉弾戦が明大・世田谷区八幡山グラウンドで繰り広げた。そうした練習が実り、就任一年目には慶應に勝利し、目標を達成した。1931年(昭和6年)に全国制覇。1935年(昭和10年)、ダブリン・システムを採用し、再び全国制覇。1940年(昭和15年)には全国制覇を三連覇を達成し、戦前の黄金期を確立した。しかし、翌年の太平洋戦争開戦以降は戦局の悪化により部員が学徒出陣を余儀なくされ、ラグビー部の活動は停止。1944年(昭和19年)、北島は大船の富士飛行機に体育課長として迎えられたが、3ヶ月で退職。故郷の新潟へ戻った。1945年(昭和20年)、終戦後すぐに上京。復員してくる部員たちが食糧に困らないよう自らグラウンド周辺にカボチャやイモを植え、同時に軍の資材置き場と化したグランドも整備した。11月には各大学のOBを集めて紅白戦を開催。1946年(昭和21年)、戦後初の公式試合を行った。2月からは本格的に練習が再開されたが、当時の食糧難は深刻で、やがて二千坪の土地を借り、水田を作り、米を作り、野菜を作り、ブタや鶏を飼い、自給自足の生活をラグビーと共に行った。1962年(昭和37年)、長男が主将を務めていたこの年の東西大学対抗試合において8回目の日本一となる。しかし、翌年以降から学業不成績による退部者と入学難によって部員数が激減。また、「前へ前へ」と進める北島理論とは対照的にあった大西鐡之祐率いる早大ラグビー部がのし上がり、1963年(昭和38年)の東西大学対抗試合より9年間連敗を喫す。次第に北島はマスコミから叩かれ始め、内部からも「時代遅れだ」との声があがるようになる。それでも信念を曲げなかった北島だったが、とある試合で部員が北島の指示を無視し、その結果トライを決めて勝利した。これを契機に、1969年(昭和44年)から具体的な指示はキャプテンだけに与え、グラウンド上での判断を学生の自主性に任せる指導方法に変更。選手自らが模索してラグビーを創り上げていく手法を確立させ、長髪も許可とした。1972年(昭和47年)にはブレザー着用を認めるなど、柔軟な舵取りが話題となった。1976年(昭和51年)、日本選手権で社会人代表であった三菱自工京都を破り優勝。1979年(昭和54年)、勲四等瑞宝章を受章。平成に入ると高齢なこともあり表での活動を控えるようになる。1991年(平成3年)には90歳を迎え、監督63年目にして初の早明戦をTVで観戦した。1991年(平成4年)には北見合宿への参加を控えたが、その2年後には再び北見合宿に参加。しかし、この頃には八幡山での練習には欠かさず参加していたものの、合宿や試合は欠席することが増えていった。 1996年(平成8年)5月28日午前4時28分、呼吸不全のため死去。享年95。監督通算67年に及ぶ期間に、大学選手権優勝11回、対抗戦グループ優勝11回の記録を残した。


「前へ!」で知られる明大ラグビー部の名物監督、北島忠治。「重戦車」と呼ばれる強力フォワードを軸に、前へと突進する豪快なラグビースタイルで明大ラグビーの黄金期を築いた。数年前、五郎丸歩の活躍でにわかに沸いたラグビー界だが、その礎には早大の大西鐵之助と明大の北島忠治という二大巨頭の存在があった。この二人が一年違いで黄泉に旅立ったというのも実に運命めいている。「前へ!」の精神を明治の代名詞にさせた北島忠治の墓は、東京都八王子市の常修寺にある。墓には「南無妙法蓮華経 北島家」とあり、背面に墓誌が彫られている。ただ墓誌に北島の名はなく、右側面に建立者として北島忠治の名が刻まれている。

