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中村草田男(1901~1983)

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中村 草田男(なかむら くさたお)

俳人
1901年(明治34年)~1983年(昭和58年)


1901年(明治34年)、清国(現在の中国)領事を務めていた中村修の長男として清国福建省廈門に生まれる。本名は、中村 清一郎(せいいちろう)。1904年(明治37年)、母とともに中村家の本籍地である愛媛県伊予郡松前町に帰国。2年後には松山市に転居した。1908年(明治41年)、一家で東京に移り、赤坂区青南尋常小学校(現在の港区立青南小学校)に通うも、1912年(明治45年)に再び松山に戻り、松山第四小学校に転入する。1914年(大正3年)、松山中学に入学。先輩に伊丹万作がおり、1916年(大正5年)に伊丹らとともに回覧同人誌「楽天」を制作。1918年(大正7年)、極度の神経衰弱にかかり中学を1年休学。復学した頃にニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』に出会い、生涯の愛読書となる。1922年(大正11年)、松山高等学校に入学。その直後に可愛がられていた祖母に死なれたことで不安と空虚に襲われ、その解決の鍵として哲学・宗教に至る道を漠然と思い描く。1925年(大正14年)、一家で再び東京に移転。4月に東京帝国大学文学部独文科へ入学した。チェーホフやヘルダーリンを愛読するが、1927年(昭和2年)に再び神経衰弱に罹り、翌年には休学。この頃、斎藤茂吉の歌集『朝の蛍』を読んで詩歌に目を開き、「ホトトギス」を参考にしながら句作を始め、俳号「草田男」を使い始める。中村は自己流で「ホトトギス」の客観写生を学び、季語の象徴性を生かして西洋近代文学の思想性を日本的な情感に解かしこむ表現を模索した。1929年(昭和4年)、叔母の紹介で高浜虚子と出会い、復学の後に東大俳句会へ入会。水原秋桜子の指導を受け、「ホトトギス」9月号にて4句入選する。1931年(昭和6年)、国文科に転じ、1933年(昭和8年)、卒業し、成蹊学園に教員として就職。この頃、風間直得が提唱したルビ俳句に反発し、「日本語そのものの破壊のわざ」と酷評した。1934年(昭和9年)、「ホトトギス」の同人となる。1934年(昭和9年)、日野草城が『俳句研究』4月号に、新婚初夜をモチーフとしたエロティックな連作「ミヤコホテル」10句を発表。客観写生、花鳥諷詠を題目としない同作に中村は非難したが、室生犀星が「俳句は老人文学ではない」(『俳句研究』1935年2月号)という文章を発表し「ミヤコホテル」が俳句の新しい局面を開いたとして積極的に評価した。この犀星の賛辞をきっかけにして中村が『新潮』誌上で「ミヤコホテル」を批判する文章を発表。これに草城自身が反駁し、『新潮』『俳句研究』で「ミヤコホテル論争」と言われる論戦に発展した。 これ以降、新興俳句運動に対しては強い興味を示しつつも強力な批判者としての立場に身を置く。1936年(昭和11年)、第一句集『長子』を出版。その中に収められた「降る雪や 明治は遠く なりにけり」が評判を呼ぶ。1939年(昭和14年)、句集『火の鳥』を発表。その中の「萬緑の中や 吾子の歯 生え初むる」が当時の俳句界にセンセーションを巻き起こし、「萬緑」という言葉が盛夏の季題として定着するまでとなった。学生俳句連盟機関誌「成層圏」を指導。また『俳句研究』座談会に出席したことをきっかけに、石田波郷、加藤楸邨らとともに「人間探求派」と呼ばれるようになる。しかし、戦時中は時局に便乗した年長の俳人からの圧力もあり、1943年(昭和18年)より「ホトトギス」への投句を断念した。 1946年(昭和21年)、「成層圏」を母体として「萬緑」を創刊。同年、桑原武夫が雑誌『世界』11月号に「第二芸術 ―現代俳句について―」を発表。俳句という形式は現代の人生を表しえないなどとして、俳句を「第二芸術」として他の芸術と区別するべきと論じた。これに対し、中村をはじめ山口誓子、日野草城、西東三鬼、加藤楸邨などが反論し、俳句の党派性などの弊害をある程度認めつつ、桑原の鑑賞力の低さや俳句に対するそもそもの非好意的な態度を批判。当時の俳壇に大きな論争を引き起こした。1949年(昭和24年)、成蹊大学政経学部教授に就任。国文学を担当する。1960年(昭和35年)、現代俳句協会の幹事長に就任。しかし、現代俳句協会賞選考を巡って協会内で意見対立が起こったため、1961年(昭和36年)に協会を辞し、新たに俳人協会を設立。初代会長に就任する。一方で、社会性・抽象性に富む無季の句を提唱する前衛俳句運動の旗手であった金子兜太と、有季定型を主張する中村との間で論争も繰り広げられた。1965年(昭和40年)、成蹊大学文学部の教授に就任。1967年(昭和42年)の定年退職後、非常勤講師となったのち、1969年(昭和44年)に同名誉教授となった。1972年(昭和47年)、紫綬褒章を受章。1974年、勲三等瑞宝章を受章。同年、芭蕉の晩節の境地を「軽み」とし、「あるべき俳句」は「軽みの俳句」とした山本健吉に反論。軽みの一語で芭蕉の晩節を括ろうとする立場に非を唱え、「軽み」の論争が巻き起こる。1978年(昭和53年)、メルヘン集『風船の使者』により芸術選奨文部大臣賞を受賞。1983年(昭和58年)8月5日午前7時、急性肺炎のため東京都世田谷区北烏山の病院で死去。享年82。


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加藤楸邨、石田波郷らとともに「人間探求派」と呼ばれた中村草田男。代表作「降る雪や 明治は 遠くなりにけり」はその言い回しが現在も流用され、「○○は遠くなりにけり」という風に使われている。もう一つ、「萬緑の 中や吾子の 歯生え初むる」は今なお教科書に掲載される一句であり、中村の句は時代を超えて親しまれていることがよくわかる。そうした句を詠んだ当の本人はというと、恐ろしいほどに喧嘩屋の性分であり、活動のほとんどが論争で彩られている。生涯で挑んだ論争は数知れず、そのいくつかの論争は日本の句会を揺るがす事件であった。しかし、彼には「自己の追求がそのまま俳句の追求になるように、自己の内面を生活のうちに詠もうとする」こだわりがあり、そうした俳句を実直に追い求めたが故の行動であった。純真な詠み人・中村草田男の墓は、東京都あきる野市のカトリック五日市霊園と愛媛県松山市の道後鷺谷墓地にある。前者の棺のような墓には「勇気こそ 地の塩なれや 梅真白」と「ヨハネ・マリア・ヴィアンネ 中村清一郎」と刻まれている。

by oku-taka | 2018-10-07 01:44 | 文学者 | Comments(0)