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浜口庫之助(1917~1990)

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浜口 庫之助(はまぐち くらのすけ)

作曲家
1917年(大正6年)~1990年(平成2年)


1917年(大正6年)、兵庫県神戸市に生まれる。父は建設会社を経営する実業家で、家庭環境は非常に裕福だった。家族の多くが音楽好きで、兄弟はチェロ、ギター、ウクレレなどを嗜んだ。浜口自身も自然に音楽に親しんで育ち、5歳の時には楽譜を読めるようになった。小学2年の時、一家で東京に上京。東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)に進学した後、旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部前期課程)入学を目指したが、受験に失敗。1935年(昭和10年)、早稲田大学高等予科(現在の早稲田大学高等学院)に入学した。1936年(昭和11年)、新宿にあった帝都ダンスホールのバンドボーイとなり、ギタリストとして活動する。当時の浜口は昼と夜に2つのバンドを掛け持ちしながらアメリカへ渡ってジャズの修行をすることを夢見ており、大学も中退。その夢は1937年(昭和12年)に実現しかけたが、日中戦争の開戦が近いという情報を入手した友人に渡航中止を勧められて断念した。渡航を断念した浜口は神戸製鋼所に就職したが、社会人として働くには学歴が必要だと悟り退社。1939年(昭和14年)、青山学院高等商学部(現在の青山学院大学経営学部)に入学した。在学中は大学内で立教大学や慶應義塾大学など他大学の学生と一緒に「DooDooフライヤン」という名のバンドを組んで活動する傍ら、ギター講師やスタジオ・ミュージシャンをして生活費を稼いだ。 1942年(昭和17年)9月、青山学院高等商学部を繰り上げ卒業。ジャワ島で農園を委託経営する会社に就職し、同島のマランへ赴任した。同地には終戦まで勤務し、商社の仕事の他に軍の依頼で現地の住民に歌を通して日本語教育を行う仕事も任された。終戦後は捕虜となり、1946年(昭和21年)5月に引き揚げ。東京でバンドを組み、進駐軍を相手に演奏を行った。その後、灰田勝彦の誘いを受け、灰田がメンバーを務めるハワイアンバンドのメンバーとなり、自らも「スウィング・サーフライダーズ」や「アフロクバーノ」を結成して音楽活動を行う。 1950年(昭和25年)、結婚。一男一女をもうける。1953年(昭和28年)、「浜口庫之助とアフロ・クバーノ」としてNHK紅白歌合戦に出場。以降、3年連続で出場を果たす。1957年(昭和32年)、新宿コマ劇場で公演を行った海外の舞踊団が「郷土の芸術をお見せできるのは光栄なこと」と挨拶したのを見た浜口は、外国の音楽を演奏するのではなく日本の曲を創作することこそが重要だと認識するようになり、バンドを解散。歌手活動を停止し、作詞家・作曲家へ転向する。1959年(昭和34年)、『黄色いさくらんぼ』(スリー・キャッツ)が初のヒット。同年、『僕は泣いちっち』(1959年/守屋浩)がヒットし、作曲家として頭角を現すようになる。1960年(昭和35年)には作詞した『有難や節』(守屋浩)もヒットし、以降は社会情勢や大衆心理をとらえた作品作りを意識することで数々のヒット曲を生み出すようになった。1963年(昭和38年)、妻と死別。一方、この年に公開された映画『拝啓天皇陛下様』(野村芳太郎監督)に容貌が似ていることを買われて昭和天皇役で出演した。作詞・作曲家としは、『コロッケの唄』(1962年/五月みどり)、『恋の山手線』(1964年/小林旭)のヒットを飛ばしたが、デビュー初期のような大ヒットは出せず、コロムビアレコードを解雇される。1965年(昭和40年)、新興楽譜出版社の草野昌一から『キューティ・パイ』で知られるジョニー・ティロットソンの楽曲制作依頼を受け、日本における外国アーティストの原盤制作の第一号となった『涙くんさよなら』を発表。同曲はジャニーズ、マヒナ・スターズ、坂本九などが競作で出すほどのヒットとなり、これを機としてフリーに転向。『愛して愛して愛しちゃったのよ』(1965年/田代美代子・和田弘とマヒナスターズ)、『星のフラメンコ』(1966年/西郷輝彦)と立て続けにヒットを連発。特に1966年(昭和41年)の『バラが咲いた』(マイク真木)は第一次和製フォークブームの先駆けとなり、本曲のヒットが契機となって日本の音楽界にフォーク・ソングブームが広がっていくことになった。同年、『星のフラメンコ』『バラが咲いた』で第8回日本レコード大賞作曲賞を受賞。以降、『夕陽が泣いている』(1966年/ザ・スパイダース)、『夜霧よ今夜も有難う』(1967年/石原裕次郎)、『愛のさざなみ』(1968年/島倉千代子)と数々のヒット曲を出し、ヒットメーカーと呼ばれるようになる。 また、ビリーバンバン、にしきのあきらなど自らの弟子をスターに育て上げるなど人材育成にも才能を発揮した。 1973年(昭和48年)、女優の渚まゆみと再婚。一女を儲けた。1981年(昭和56年)、胃癌を発症し、手術により胃の2/3を切除。1984年(昭和59年)には下咽頭癌が発見され、闘病生活の中で作曲をした『人生いろいろ』(1987年/島倉千代子)が大ヒットした。1990年(平成2年)、 文化庁から叙勲(勲四等)の打診があったが、「勲章のため曲を作っているのではない」という思いから辞退した。それから間もなくの12月2日、喉頭癌のため東京都江東区の癌研究会附属病院(現在のがん研究会有明病院)で死去。享年73。


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誰もが口ずさめる歌を作り続けたホームソングの大家、浜口庫之助。昨年は生誕100年を迎え、それを記念したCDや番組が作られたのみならず、紅白歌合戦で桑田佳祐が浜口を演じるなどして再び脚光を浴びている。かつて「流行歌は頭で考えてひねって作ったものはダメね。ある日突然ポロンっと生まれたやつがいい」と語っていた浜口の歌は、西洋音楽のリズムと日本語の詞を合体させたものが多く、ホップで明るい曲想で歌謡界に新風を巻き起こした。「泣いちっち」「涙くん」「スイッチョ」なる造語を歌に盛り込んでヒットさせたのは、ハマクラ先生が最初である。いつの時代でも誰もが口ずさめる歌を作り続けたヒットメーカーの墓は、東京都府中市の多磨霊園と神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園に分骨されている。前者は先祖代々の本墓であり、洋型の墓には左上に十字架、右下に「濱口家」と刻まれている。後者は後妻の渚まゆみが建立したものであり、洋型の墓に「浜口庫之助」と刻まれ、左側に『バラが咲いた』の碑が建つ。いずれも墓誌はない。

by oku-taka | 2018-10-06 23:16 | 音楽家 | Comments(0)