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岡田嘉子(1902~1992)

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岡田 嘉子(おかだ よしこ)

女優
1902年(明治35年)~1992年(平成4年)


1902年(明治35年)、広島県広島市細工町(現在の広島市中区大手町)に生まれる。母方の祖母がオランダ人の血を引くため、エキゾチックな美貌を受け継いだ。幼少期は優秀な教育を受けて育つも、父の放浪癖のために一家は朝鮮の釜山、横須賀、東京の湯島などに移り、嘉子も小学校を8つも変わった。1915年(大正4年)、東京の女子美術学校西洋画科へ入学。1917年(大正6年)、父が北海道小樽の「北門日報」の主筆に招かれ、嘉子も卒業後の1918年(大正7年)に小樽へ移り同社の婦人記者として入社する。同年、慈善演芸会の催しで頼まれてヒロインに扮して出演。際立った美貌が評判となる。父が劇作家の中村吉蔵と知り合いだった事もあり、1919年(大正8年)父に連れられて上京し、中村の内弟子となる。3月1日には有楽座「カルメン」の端役で初舞台を踏む。この後、東北地方での巡業中に座員で早稲田大学予科の学生であった服部義治と無知のまま初体験を持ち妊娠。東京に戻って男児を出産し、嘉子の弟として岡田家の籍に入れている。服部は結婚を迫ったが拒否した。 その後も多くの劇団の客演をこなし、1921年(大正10年)の舞台協会帝劇公演「出家とその弟子」では息をのむようなラブシーンを見せ、一躍新劇のスター女優となった。一方で、地方巡業中に共演した山田隆弥と愛人関係となる。これを妬んだ服部は鉄道自殺をしてしまった。1922年(大正11年)、日活向島撮影所の衣笠貞之助ら女形を含む幹部俳優が社の女優採用の不安から国活に移籍。日活向島はこれを埋めるため舞台協会の嘉子や夏川静江らと契約した。 第一回作品は倉田百三の戯曲「出家とその弟子」をベースにした「髑髏の舞」。愛欲心理描写がサイレント期、日本映画のエポックとなった新生日活のこの大作で、嘉子は町娘を演じ映画でも一躍スターとなった。この後舞台と平行して映画出演を続けたが同年関東大震災のため日活向島が閉鎖。舞台を続けるが不入りが続き、多額の借金を抱えた。さらに結婚を望んだ山田に30歳も上のパトロンの妻がいる事が分かり、山田の煮え切らない態度に悩む。この妻への意地で日活京都撮影所と契約。日活から前借りし、借金を返済したため一座を救うため身を売った「大正お軽」と新聞に騒がれた。 1925年(大正14年)、『街の手品師』に主演。舞台のスターだった嘉子は、自らの演技を活かせない村田実監督の細かいカット割りに強く反発。しかし、この作品の嘉子の演技は「完璧に達せる」と高い評価を得た。続く『大地は微笑む』は日活、松竹、東亜キネマの三社競作となったメロドラマの大作だったが、嘉子の日活版に軍配が上がり、東亜キネマの専属になっていた山田の内縁の妻と世間にも知られていたにもかかわらず、この年10月の映画女優人気投票でトップとなった。1926年(昭和元年)、講演会で「私たち女優をもっと真面目に扱って欲しい」とスターの人権宣言をする。1927年(昭和2年)、『彼をめぐる五人の女』に主演。同作はキネマ旬報ベストテン2位となり、モダンなタイプのヒロイン像はそれまでの日本の女優にないタイプのもので、新しい時代の息吹きとして大きな評判を獲る。 同年、大作映画『椿姫』のヒロインに抜擢。今までに無い意欲を持って撮影に挑んだが、ロケ現場で群集を前に村田監督から罵倒に近い叱声を浴びたり、私生活の悩みを相手役の美男俳優・竹内良一に相談したところ衝動的に駆け落ちし失踪。新聞は「情死をなす恐れあり」などと書きたて、スキャンダルとして大騒ぎになる。まもなく二人は結婚したが、日活は嘉子を解雇し、映画界から閉め出された。恋の逃避行は彼らを大衆のアイドルとしたが、反面その奔放さに対する反感も強く、舞台では立ち往生させられるほどのひどい野次に見舞われた。1928年(昭和3年)、作家・直木三十五の肝いりで「岡田嘉子一座」を旗揚げ。この年から1930年(昭和5年)4月に解散するまでほぼ2年間地方巡業。信州、北陸、東北、関西、東海、四国、中国、九州、更に朝鮮、中国、台湾も一周と、興行の引き受け手があるところが尽きるまで各地を回った。 帰京後、日本で糸口が着いたばかりのトーキー(有声映画)に着目し、自らのプロダクションを設立。嘉子主演・竹内監督で、舞踏や流行小唄を題材とした十数本の映画を製作し売り込みを図る。また、日本舞踊に本格的に取り組み、藤間静枝の門下となって名取を許され藤蔭嘉子を名乗った。1932年(昭和7年)、日活時代の借金を肩代わりするとの条件で松竹蒲田撮影所と契約。しかし、栗島すみ子、田中絹代、川崎弘子ら人気スターの間においては、若さの盛りにスターの座を退いた嘉子は華やかさで彼女らには及ばず、小津安二郎の『また逢う日まで』『東京の女』の主演以外は意欲の湧かないものばかりで役にも恵まれなかった。最大の希望であったトーキーにもいくつか出演するも、脇役あるいは不調和な役柄が続く。1934年(昭和9年)、衣笠貞之助の『一本刀土俵入り』や小津の『東京の宿』に出演するが、使いにくい女優と敬遠されるにいたり、自分が真底打ち込める作品を求め舞台転向を決意。数本の映画出演の傍ら松竹傘下の新派演劇、井上正夫一座に参加し舞台出演が増えた。一方で、竹内との仲は前年から冷え切り別居状態になっていた。1936年(昭和11年)、嘉子の舞台を演出したロシア式演技メソッド指導者で共産主義者の演出家・杉本良吉と激しい恋におちる。1937年(昭和12年)、過去にプロレタリア運動に関わった杉本は執行猶予中であり、召集令状を受ければ刑務所に送られるであろう事を恐れ、ソ連への亡命を決意。12月27日、二人は上野駅を出発。北海道を経て、翌年1月3日に2人は厳冬の地吹雪の中、樺太国境を超えてソ連に越境する。しかし、不法入国した2人にソ連の現実は厳しく、入国後わずか3日目で嘉子は杉本と離され、GPU(後の KGB)の取調べを経て別々の独房に入れられ、2人はその後二度と会う事は無かった。日本を潜在的脅威と見ていた当時のソ連当局は、思想信条に関わらず彼らにスパイの疑いを着せ、拷問と脅迫で1月10日に岡田はスパイ目的で越境したと自白した。このため、杉本への尋問は過酷を極め、杉本も自らや佐野碩、土方与志、メイエルホリドをスパイと自白した。一方、日本では駆落ち事件として連日新聞に報じられ世間を驚かせた。この事件を機に、日本では特別な理由なく樺太国境に近づくこと等を禁じた国境取締法が1939年(昭和14年)に制定された。同年9月27日、2人に対する裁判がモスクワで行われ、岡田は起訴事実を全面的に認め、自由剥奪10年の刑が言い渡された。杉本は容疑を全面的に否認、無罪を主張したが、銃殺刑の判決が下された。10月20日、杉本は処刑。12月26日、岡田はモスクワ北東800キロのキーロフ州カイスク地区にある秘密警察NKVDのビャトカ第一収容所に送られた。岡田はこの収容所で自己を取り戻し、ソ連当局に再審を要求する嘆願書を書き続けたが、無視された。このラーゲリに約3年間収容された後、1943年(昭和18年)1月7日からモスクワにあるNKVDの内務監獄に収容され、約5年後の1947年(昭和22年)12月4日に釈放された。釈放後も日本へはあえて帰国をせず、モスクワ放送局(後のロシアの声)に入局。日本語放送のアナウンサーを務めた。その後、11歳下の日本人の同僚で、戦前日活の人気俳優だった滝口新太郎と結婚。また、現地の演劇学校に通い、演劇者として舞台に再び立った。一方、日本は嘉子の亡命後に太平洋戦争が始まり、彼女は忘れられた存在だったが、戦後の1952年(昭和27年)に訪ソした参議院議員の高良とみが嘉子の生存を確認。にわかに日本で関心が高まる。 1967年(昭和42年)4月、日本のテレビ番組のモスクワからの中継に登場。往年と変わらない矍鑠とした口調で話し、またも日本中を驚かせた。そして、東京都知事の美濃部亮吉ら国を挙げての働き掛けで、1972年(昭和47年)、亡くなった夫の滝口の遺骨を抱いて35年ぶりに帰国。気丈な彼女もさすがに涙々の帰国記者会見となった。その後は、映画『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』に出演。『クイズ面白ゼミナール』『徹子の部屋』などのトーク・バラエティ番組にも出演した。1986年(昭和61年)、ソ連でペレストロイカによる改革が始まり「やはり今では自分はソ連人だから、落ち着いて向こうで暮らしたい」と再びソ連へ戻る。以降、日本へは二度と帰国しなかったが、日本のテレビ番組の取材には応じ、モスクワのアパートの自宅内も公開していた。晩年は軽度の認知症など老衰症状が出ていたことから、モスクワ日本人会の人間がヘルパーとして常時入れ替わり立ち替わりで彼女の面倒をみていた。1992年(平成4年)2月10日、モスクワの病院で死去。享年89。


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元祖スキャンダル女優・岡田嘉子。幾度となく禁断の恋に落ち、未婚の母、不倫、浮気、果ては外国への逃避行、と全てやってのけた。今の世でここまのタブー恋愛を見事にやってのけたらば、間違いなく袋叩きにあうだろう。その昔、出演作『隣の八重ちゃん』を観たとき、大学生の大日方傳に流し目をしたり、仕舞いには「わたしを愛してくれない?」と誘惑する姿にドキリとさせられた。なまめかしい雰囲気と小悪魔な仕草、それなのに子供のような甘ったるい声…なるほど当時の演劇人が彼女に夢中になったのも頷ける。ソ連から帰国後の彼女は、それまでとは打って変わり、悟りを開いた穏やかな老婆を多く演じた。中でも、復帰作となった『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』での「人生に後悔はつきものなんじゃないかしら。ああすればよかったなあという後悔と、もう一つはどうしてあんなことしてしまったのだろう、という後悔…」の台詞は、これまでの彼女の人生を反映させたかのようで何とも重く、場面が引き締まった感じがした。日本の演劇界において大ロマンスを成し遂げた岡田嘉子は、モスクワ市ドンスコエ葬儀場で茶毘に付され、モスクワ日本人会の手で故国に帰り、東京都府中市の多磨霊園に埋葬された。墓は「山本家之墓」となっており、右側に滝口新太郎と岡田嘉子の自筆による「悔いなき命をひとすじに」と刻まれた墓石が建つ。

by oku-taka | 2018-10-06 13:36 | 俳優・女優 | Comments(0)