2018年 09月 22日
中村元(1912~1999)
中村 元(なかむら はじめ)
哲学者
1912年(大正元年)~1999年(平成11年)
1912年 (大正元年)、島根県松江市殿町に生まれる。生後まもなく家庭の事情で東京へ移り、1925年 (大正14年) 東京市立誠之小学校(現在の文京区立誠之小学校)を卒業。その後、東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を経て第一高等学校に入学。在学中に須藤新吉と亀井高孝から学問の基本を学び、ブルーノ・ペツォルト(ドイツ語版)から仏教の話を聞く。1933年(昭和8年)、東京帝国大学(現在の東京大学)文学部印度哲学梵文学科に入学。1936年 (昭和11年) 、東京帝国大学文学部印度哲学梵文(ぼんぶん)学科を卒業。そのまま東京帝国大学大学院に入学し、インド哲学の研究にあたる。ここでは、宇井伯壽に文献学としての仏教学を学ぶほか、倫理学の和辻哲郎の知遇も得る。1941年 (昭和16年)、大学院の博士課程を修了。1942年(昭和17年)、博士論文『初期ヴェーダーンタ哲学史』を提出。同論文は5年がかりで完成させ、その原稿はリヤカーで弟に手伝ってもらって運び込んだ。指導教授だった宇井伯壽も「読むのが大変だ」と悲鳴をあげたという。1943年 (昭和18年)、東京帝国大学助教授に就任。同年、東京帝国大学から文学博士号を授与される。1951年(昭和26年)、『東洋人の思惟方法』が評価され、米国スタンフォード大学より客員教授として招聘。以降外国から受けた招聘は50回を超える。1954年 (昭和29年)、東京大学の教授に就任。1957年 (昭和32年)、『初期ヴェーダーンタ哲学史』で日本学士院恩賜賞を受賞。1964年 (昭和39年)、東京大学文学部長に就任。「文化交流研究施設」の設立に尽力し、第一類で初めて「比較思想」の講義を行なう。1966年(昭和41年)、近代インドの思想家にしてインド第二代大統領ラーダークリシュナンより「知識の博士(VidyAvAcaspati)」の学位を与えられる。1970年 (昭和45年) 、財団法人東方研究会を設立し、初代理事長に就任。若手研究者の研究継続のための道を開く。また、東方研究会の活動の一環として東方学院を開設し、学院長に就任。自身も「寺子屋」と称して、国籍も学歴も年齢も問わず、真に学問を目指す人のための講義を行う。1973年 (昭和48年) 、東京大学を定年退官し、同大学名誉教授となる。1974年 (昭和49年)、比較思想学の先駆者として比較思想学会を創設し、初代会長に就任。同年、紫綬褒章を受章。1975年 (昭和50年) 、『佛教語大辞典』を刊行。同作で毎日出版文化賞特別賞と仏教伝道文化賞を受賞。1977年 (昭和52年) 、文化勲章を受章。文化功労者にも選出される。1984年 (昭和59年) 、勲一等瑞宝章を受章。日本学士院会員になる。1989年(昭和64年)、昭和天皇崩御に伴い、有識者委員の一人として「元号に関する懇談会」に列席。1999年(平成11年)、NHK放送文化賞を受賞。晩年も講演やテレビ出演と精力的に活動していたが、この年の夏ごろから体調を崩し、自宅で療養生活に入る。10月10日午前10時45分、急性腎不全のため東京都杉並区久我山の自宅にて死去。享年86。
インド哲学、仏教学の世界的権威であった中村元。漢文訳中心だった仏教研究をインドの古代思想にまで遡り、初めて原始仏典を現代語に翻訳した。また、サンスクリット語やバーリ語など優れた語学力で、古代インド哲学から南アジア思想、仏教など独創的研究を進め、死や老いといった現代人が直面する問題にまで幅広い関心を持ち、積極的に発言し続けた。ここまでの偉大な学者でありながら、中村は決して偉ぶらず、常に柔和な笑顔で仏教を説き続けた。中でも有名なのが、20年の歳月をかけて一人で執筆した『佛教語大辞典』の原稿を編集者が紛失した際、「怒ったら原稿が見付かるわけでもないでしょう」と最初から書き直し、8年かけて4万5000項目の辞典を完成させた。仏教用語である「和顔愛語」を体現した哲学者・中村元の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓所には3基の墓石が建ち、奥側に墓誌と『ブッダのことば』の碑が建つ。戒名は自誓院向学創元居士。