2018年 09月 03日
島秀雄(1901~1998)
島 秀雄(しまひでお)
鉄道技術者
1901年(明治43年)~1998年(平成10年)
1901年(明治43年)、鉄道技術者・島安次郎の長男として大阪で生まれる。 父の影響を受け、1925年(大正14年)に東京帝国大学工学部を卒業し鉄道省へ入省。キャリアの初期には父・安次郎の直系の弟子格に当たる朝倉希一に師事し、工作局車両課で蒸気機関車開発に携わった。1928年(昭和3年)、幹線用蒸気機関車「C53形(設計主任:伊東三枝)」の設計に参加し、シリンダー・弁装置を担当。しかし、設計部分が機関車そのものの寿命に致命的な影響を及ぼす深刻な欠陥構造となってしまう。1930年(昭和5年)、設計主任に就任。主任として初めてのパシフィック機であるC54形も空転しがちで不評を買い、しかも製造から15年前後で主要部の鋳鋼製部品に多くの亀裂が発生して早期廃車となった車両が全体の半分近くを占めるなど、看過できないほどに重大な失策が幾つもあった。設計主任としての代表作とされ、当人も後に「会心の出来」と評した貨物用機関車「デゴイチ」ことD51形も大量生産され全国に普及したが、島が設計を担当した初期形は構造面での問題を多数抱えていた。そのため、島の後任として主任設計者となった細川泉一郎によって大幅な設計変更が実施され、当初の仕様よりも軸重の増大を許容し死重を追加搭載するようになってようやく本格的な大量生産が開始された。しかし、C10形・C11形・C12形と3形式続けて設計主任を担当した一連の小形制式機シリーズの設計は一定の成果を見せ、特にC12形ではボイラー主要部組み立てへの電気溶接構造の採用や、主台枠前部への大型鋳物部品の採用など、新しい設計に挑戦し成功した。その一方、日本の軌道条件が劣悪な狭軌鉄道における蒸気機関車の限界と、電車・気動車に代表される動力分散方式の将来性を見抜いていたことから、いち早く気動車の開発を推進し、普及に努めた。また内燃機関技術や省営自動車(国鉄バス)への国産車採用の見地から、1931年(昭和6年)に商工省(当時)の主導で開始された国内自動車メーカー共同による標準形式自動車の開発にも鉄道省から参画。1933年(昭和8年)に後のいすゞ車の原型となるTX型を完成させている。 1937年(昭和12年)、海外の鉄道事情視察の命を受け、翌年にかけてアジア・欧州・南米・北米と外遊。世界各国の鉄道事情を研究した。帰国後は国内の狭軌用機関車を満鉄用の広軌用に改造。1939年(昭和14年)、1930年代末期から進められた東京-下関間を9時間で結ぶ「弾丸列車計画(新規広軌幹線敷設計画)」のメンバーに招集される。ここでも電気動力を本命として計画を立案したが、太平洋戦争激化によって計画は頓挫した。以降、戦時中はB20形や63系電車など、戦時設計車両を手掛けた。 1947年(昭和22年)、長距離用電車・80系電車の計画を立案。電車自体に懐疑的だった当時のGHQによる妨害を排しながら、1949年(昭和24年)に完成。翌年から東海道本線に導入させ、16両の長大編成を組んだ「湘南電車」の運行を実現させた。その間の1948年(昭和23年)には国有鉄道理事工作局長に就任。ビジネス特急「こだま」のプロデュースに携わるなどしたが、戦後の混乱した情勢において鉄道事故が続発。1951年(昭和26年)には大惨事となった列車火災事故の桜木町事故が起こり、島は63系電車の安全面の改良を徹底的に行った後、責任を取り国鉄車両局長の職を辞した。退職後は鉄道車両用台車の最大手メーカーである住友金属工業の顧問を務めた。1953年(昭和28年)には鉄道趣味者団体「鉄道友の会」の初代会長に就任し、鉄道趣味の分野でも活躍した。1955年(昭和30年)、十河信二が国鉄総裁に就任。十河は最適任の技術者として島に復帰を要請し、島は副総裁格の国鉄技師長に就任。鉄道電化を主軸とする動力近代化推進の先頭に立ち、純国産技術による広軌高速鉄道「新幹線」計画の指揮を執る。同計画には国内外からも反対派が多かったが、「東海道線の貨物輸送のために線路をあけるには、旅客列車を別の新線にする必要がある」と世界銀行副総裁のアメリカ人を説得し、同銀行から多年度長期借款を実現。世界標準軌(広軌)の導入、踏切の全廃、信号系を車内に移す、機関車が客車を引く欧米方式をやめて全ての車輪をモーターで駆動する等の改革を新幹線で実現させようとした。1956年(昭和31年)、産業計画会議常任委員に就任。1958年(昭和33年)、産業計画会議が国鉄分割民営化を政府に勧告。島が常任委員であったことから物議を醸す。1963年(昭和38年)、十河が「新幹線予算不足の責任」を問われ総裁を辞任。島も予算超過の責任をとる形で国鉄を退職した。退職後は再び住友金属工業に入り顧問となる。1964年(昭和39年)10月1日朝、東京駅で行われた東海道新幹線の出発式に、国鉄は島も十河も招待しなかった。島は、自宅のテレビで「ひかり」の発車を見たという。十河は前総裁と言うことで当日10時からの記念式典には招待されたが、島はこちらの招待も受けなかった。しかし、新幹線の誕生は空路におされていた鉄道の復活として著名となり、特に日本より欧米で先に評価され、1967年(昭和42年)に島は運輸の功績者を選ぶアメリカのスペリー賞を受賞。1969年(昭和44年)には英国機械学会のジェームズ・ワット賞を日本人として初めて受賞し、その地位は回復した。その後、文化功労者に選出。また、佐藤栄作首相から宇宙開発事業団の初代理事長を請われ就任。人生初めての鉄道畑以外の仕事であったが、「10年以内に日の丸衛生が実現できるはずがない」と国産ロケット路線を拒否し、アメリカからの技術導入に踏み切った。 これが後に液体水素、液体酸素の国産ロケットH2の開発につながった。その後も鉄道技術者時代と同じく最先端高性能の技術より安全性信頼性を重視したロケット・人工衛星開発の信念を貫いた。現在日本が使用している人工衛星に「ひまわり」・「きく」・「ゆり」など植物名が付けられているのは島の園芸趣味からきているという。1977年(昭和52年)、技術試験衛星「きく2号」を静止軌道に打ち上げた。同年、理事長職を2期8年で退任。 1994年(平成6年)、文化勲章を受章。鉄道関係者としては初めての受章となり、JRではこれを記念したオレンジカード等を製作・発売した。1998年(平成10年)3月18日、死去。享年96。
新幹線を作った男として名高い島秀雄。父と同じ道を歩み、D51や小型蒸気機関車の設計、弾丸列車の計画、80系・ビジネス特急「こだま」等の長距離用運行電車のプロデュース、新幹線の開発と、まさに日本の大動脈を劇的に変えた改革者であった。「できることをできるといい、できないことをできないという。当たり前のことをやる」という思想のもと、島は高性能を狙わず地道な改良で一定水準の性能と確実な信頼性を達成しようとするリスク回避のポリシーを守った。時に失敗し、理解を得られなくて批判されることも多々あったが、後年になってその功績は評価され、鉄道関係者として初の文化勲章受章という形でようやく結実した。日本の鉄道技術の発展に大きく貢献した島秀雄の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「島家」とあり、背面に墓誌が彫られている。