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入江たか子(1911~1995)

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入江 たか子(いりえ たかこ)

映画女優
1911年(明治44年)~1995年(平成7年)


1911年(明治44年)、東京市四谷区(現在の新宿区)に生まれる。本名は、東坊城 英子(ひがしぼうじょう ひでこ)。生家は子爵東坊城家で父の東坊城徳長は子爵、貴族院議員であった。1922年(大正11年)、その父が亡くなり生活に困窮するも文化学院中学部に入学。油絵を習っていたが、関東大震災で家は半壊し、手放さなければならなくなった。 1927年(昭和2年)、文化学院を卒業し、日活京都撮影所の俳優で兄の東坊城恭長を頼って京都に移る。同年、兄の友人で「エラン・ヴィタール小劇場」の主宰者・野淵昶に請われ、女優として新劇の舞台に立つ。それを観た内田吐夢の目に留まり、その勧めに従い日活に入社した。同年、内田監督の『けちんぼ長者』で映画デビュー。華族出の入江の映画界デビューは「華族のお姫さまの映画界入り」と当時の世を騒然とさせた。 以後、村田実の『激流』、内田吐夢の『生ける人形』、溝口健二の『東京行進曲』などに主演し、たちまち日活現代劇人気ナンバー1女優の地位につく。華族出身の気品ある美貌と近代的なプロポーションから「銀幕の女王」「日本嬢(ミス・ニッポン)」などと称えられ、1931年(昭和6年)には内田吐夢による『日本嬢(ミス・ニッポン)』という映画も作られた。また、千恵蔵プロを主宰していた片岡千恵蔵が、入江の現代劇での芸者役を見て「入江は時代劇に向いている」と認め、『元禄十三年』(稲垣浩監督)で相手役に抜擢。時代劇初出演を果たした。この映画で千恵蔵は「おたかの八重歯、鼻にかかった声、共演どころか女房にしたいくらいだ」とすっかり入江に惚れ込んでしまい、好きな麻雀も忘れるほど思いつめ、日夜想い悩むほどだった。稲垣浩監督が両者の間を取り持ったが、結局千恵蔵の思いは果たせずに終わっている。1932年(昭和7年)、新興キネマと提携して映画製作会社入江ぷろだくしょんを創立。当時、阪東妻三郎などスター男優が次々と独立プロダクションを作っていたが、女優の独立プロも現代劇の独立プロも「入江ぷろ」が初めてであった。第1作は溝口健二監督、中野英治共演による『満蒙建国の黎明』で、満州建国を背景に川島芳子からヒントを得た超大作で海外ロケを行い、半年の製作日数をかけた大々的なものだった。 この後、日活の俳優・田村道美と結婚。田村が自らの人気を考えて結婚を公表せず、籍も入れない別居生活であったため、兄の恭長は田村を嫌い、映画界を辞めてしまう。1933年(昭和8年)、泉鏡花の名作『滝の白糸』を溝口監督で撮り、大好評となる。しかし、溝口は一女優の入江ぷろだくしょん作品の監督ということに屈辱を感じていたため、強引に実体のない名前だけの「溝口プロダクション」という名前をその横に列記させてもらい体面を保っていた。 続いて、サナトリウム(療養所)に勤務する美貌の看護師を演じた久米正雄原作の『月よりの使者』が空前の大ヒットとなる。1934年(昭和9年)、熊谷久虎監督、宇留木浩主演の無声映画『三家庭』を最後に田村道美は俳優を引退。「入江ぷろだくしょん」に入社し、入江のマネージャーに転向する。この頃の入江は人気の絶頂にあり、この年のマルベル堂プロマイドの売り上げでは、1位が入江たか子、2位が田中絹代となった。また、この時代の男性俳優にとって、彼女と共演することは役者冥利に尽きる最高の栄誉とも言われた。一方で「入江ぷろだくしょん」が新興キネマとの提携を解消し、京都の入江ぷろ撮影所も閉鎖。1937年(昭和12年)、「入江ぷろだくしょん」は東京・砧のPCL映画製作所との提携を始め、配給は東宝映画配給となったが、吉屋信子の人気小説を映画化した『良人の貞操』を最後に「入江ぷろだくしょん」は解散。東宝と契約し、1938年(昭和13年)長谷川一夫の東宝入社記念映画『藤十郎の恋』(山本嘉次郎監督)に出演した。1941年(昭和16年)、『白鷺』(島津保次郎監督)に出演。零落した美妓に扮し、泉鏡花の当たり狂言を原作とする「流れて動いて生きる、それが女というものでしょうか」との名ゼリフが評判となった。 1942年(昭和17年)、妊娠が発覚し女優を休業する。これを機に田村と法的にも結婚する。1943年(昭和18年)、衣笠貞之助監督の『進め独立旗』で復帰するも、戦時下に相次ぐ兄3人の死に直面し、仕事に対する情熱も冷めていった。戦後は病気がちとなり、それに輪をかけるように主役の仕事も減少。1950年(昭和25年)にはバセドウ病の宣告を受け、無理を押して仕事をしながら入院費を工面し、ようやくのことで1951年(昭和26年)末になり大手術を受け、命を取り留める。 退院後は仕事をとることもままならなかったが、新興映画時代に知り合った永田雅一に誘われて大映と年間4本の契約を結ぶ。その頃、大映で戦前に鈴木澄子主演であてた「化け猫映画」のリメイクの企画が持ち上がり、永田のアイデアでその主役の話が持ち込まれた。入江は生活のためと割り切り、この話を引き受け、1953年(昭和28年)『怪談佐賀屋敷』(荒川良平監督)に主演。迫真の演技が受け映画は大当たり、次々と化け猫役が舞い込んだが、一方で「化け猫女優」のレッテルを貼られる。 1955年(昭和30年)、溝口監督の『楊貴妃』に出演。かつて「入江ぷろだくしょん」という一女優の独立プロに雇われの身であったことを恥じていたことから入江に反感を持っていた溝口は、入江の演技に執拗な駄目出しをした上、「そんな演技だから化け猫映画にしか出られないんだよ」とスタッフ一同の面前で口汚く罵倒するという嫌がらせを行った。執拗ないじめに耐えきれなかった入江は降板。その後は女優として満足な役が与えられなくなった。1959年(昭和34年)、芸能界に見切りをつけ、銀座に「バー・いりえ」を開き、実業界に転身する。その後は娘で女優の入江若葉の夫の店である有楽町のとんかつ店を手伝いながら余生を過ごした。その間、黒澤明の『椿三十郎』、市川崑の『病院坂の首縊りの家』、大林宣彦の『時をかける少女』に請われて出演し、話題となった。 1995年(平成7年)1月12日、肺炎のため死去。享年83。


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ミス・ニッポンと呼ばれ、戦前に絶大な人気を誇った入江たか子。華族に生まれ、女優としては初のプロダクションを立ち上げるなど、何から何まで華麗なスター女優であった。戦後はバセドウ病の発症、望みもしない化け猫女優というレッテル貼り、仕舞いには溝口健二からの恥辱と、栄華を極めた女優にはつらく悲しい時代だったように思う。晩年は娘夫婦と穏やかに暮らしていたようで、『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』や『時をかける少女』で見かけたとき、穏やかそうでありながら気品さが失われていない高貴なお婆ちゃまになられていて、何故だかホッと安心してしまった。波多き映画人生を送った入江たか子の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。五輪塔の墓には「東坊城家祖先累々之霊」とあり、入口右側に墓誌が建つ。

by oku-taka | 2018-08-25 14:05 | 俳優・女優 | Comments(0)