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加藤嘉(1913~1988)

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加藤 嘉(かとう よし)

俳優
1913年(大正2年)~1988年(昭和63年)

1913年(大正2年)、東京府東京市芝区新堀町(現在の東京都港区芝)に生まれる。本名は、加藤 嘉(かとう ただし)。鎌倉師範付属小学校、慶應義塾商工学校を経て慶應義塾高等部に進学。在学中、先輩の徳大寺伸が主宰するアマチュア劇団に誘われ、公演に助っ人として参加。当時は俳優になるつもりはなく、山岳部の活動をしながら学生生活を送っていたが、ラグビー部員に刀の鍔で殴られて失明状態になり、1年で高等部を中退。目は半年後に回復し、その後は素人劇団に出演していた。 1934年(昭和9年)、東京宝塚劇場の専属俳優募集の広告を見て俳優を志し、既成俳優を含む1300人の応募者から男16人、女9人の合格者の中に選ばれる。しかし、大部屋生活に不満を持ち、それまで関心のなかった新劇を見るようになる。その後、反戦劇に共鳴し、西欧近代劇や社会主義の本を片端から読み漁る。1936年(昭和11年)、新築地劇団付属研究所に入所。同劇団での初舞台となった水谷八重子主演の『女人哀詞』で茶店の親爺役を演じ、23歳にして早くも老け役を演じた。1937年(昭和12年)、研究所を卒業して正式に座員となり、『桜の園』『土』『どん底』などの作品に出演して頭角を現す。1940年(昭和15年)、新劇弾圧により薄田研二、本庄克二ら多くの劇団員が検挙される。加藤も築地署に1週間ほど留置され、劇団は解散させられた。1941年(昭和16年)、南旺映画製作の『流旅の人々』で映画に初出演。同年5月、井上演劇道場・水谷八重子一座合同劇に水谷の相手役として出演。1942年(昭和17年)には明治座にも出演し、やがて井上正夫主宰の井上演劇道場に入るが、1943年(昭和18年)に応召。横須賀海兵団に入隊し、海軍経理学校の警衛分隊に勤務するうちに終戦を迎える。1946年(昭和21年)、道場を解散して第2次新協劇団に参加した井上に従って同劇団に入るが、1947年(昭和22年)に東京芸術劇場公演『林檎園日記』にフリーの立場で出演したのを機に、滝沢修、宇野重吉らが結成した民衆芸術劇場(第一次民藝)に参加。1950年(昭和25年)には劇団民藝(第二次民藝)創立に参加し、『その妹』等に出演するが、翌年には民藝を退団。以降は活躍の場を映画に移し、山本薩夫監督の『真空地帯』などの独立プロ映画に出演した。1957年(昭和32年)、今井正監督『米』に出演。これをきっかけに、今井正、山本薩夫、内田吐夢、今村昌平、野村芳太郎ら多くの巨匠や若い監督たちに珍重され、得がたい性格俳優として強い印象を残した。一方、私生活では4度結婚し、1950年(昭和25年)には山田五十鈴と3度目の結婚をしている。1952年(昭和27年)に夫婦で現代俳優協会を結成したが、3年で離婚した。1958年(昭和33年)に『米』で親子役として共演した22歳年下の中村雅子と再婚し、一女を儲けた。 1965年(昭和40年)、文学座に入団。『女の一生』『五稜郭血書』などの舞台に立った。 1974年(昭和49年)、野村芳太郎監督『砂の器』に出演。ハンセン病を患う和賀英良の父親役を回想シーンで生死の狭間を演じ、鬼気迫る演技は高く評価された。1984年(昭和59年)、痴呆気味の老人役を好演した『ふるさと』で、毎日映画コンクール演技特別賞とモスクワ国際映画祭最優秀主演男優賞を受賞。 1988年(昭和63年)2月29日深夜、自宅の寝室で倒れ、救急車で運ばれたが、翌日に脳卒中のため搬送先の病院で死去。享年75。


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いぶし銀の老俳優・加藤嘉。笠智衆、大滝秀治と並ぶお爺ちゃん俳優の代表格であり、絵本「ぼくのおじいちゃんのかお」のモデルに採用されたほどである。役者としては、くぐもった声と滑舌の悪さが難点であったが、それをカバーするだけの表情と表現に長けた名優であった。特に、野村芳太郎監督作品『砂の器』のラスト直前、生き別れたハンセン病の息子で有名ピアニストになった和賀(加藤剛)の写真を見せられ「ううう・・・そ、そんな人、知らねえ!」と叫ぶあの慟哭のシーンは本当に名演技であった。名バイプレイヤー・加藤嘉の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「加藤家之墓」とあり、左側に墓誌が建つ。
by oku-taka | 2018-08-23 22:15 | 俳優・女優 | Comments(0)