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木村功(1923~1981)

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木村 功(きむら いさお)

俳優
1923年(大正12年)~1981年(昭和56年)


1923年(大正12年)、広島県広島市千田町(現在の中区千田町)に生まれる。1941年(昭和16年)、広島二中(現在の広島県立広島観音高等学校)を卒業し、上京。文化学院文学部に入学。在学中より演劇運動に没頭し、様々な学生演劇に出演する。また、東宝撮影所でアルバイトをしていた友人を訪ねたとき、山本嘉次郎監督にスカウトされ『ハワイ・マレー沖海戦』に出演した。1943年(昭和18年)、文化学院閉鎖に伴い1年繰上げで卒業。1944年(昭和19年)、召集され1年間海軍生活を送る。1945年(昭和20年)、終戦による復員で広島へ帰郷したが、家族は8月6日の原爆により全員死亡という憂き目に遭う。1946年(昭和21年)、失意のうちに再び上京し、俳優座に入団。しかし、ロベルト・ロッセリーニ『戦火のかなた』など戦後のイタリア映画が展開したネオ・リアリズムに傾倒し、日本の新劇運動に疑問を抱くようになる。1949年(昭和24年)、痩せこけた俳優を探していた黒澤明監督の目に留まり『野良犬』に出演。三船敏郎演じる刑事に追われる惨めな復員兵の犯人役で、戦争の深い傷跡を表現し大きな注目を集めた。以後も『生きる』、『七人の侍』、『天国と地獄』など黒澤明作品の常連となる。1950年(昭和25年)、保守的に傾き始めた幹部たちと対立して俳優座を退団。各新劇団の若手であった岡田英次、金子信雄、高原駿雄らと「青年俳優クラブ(劇団青俳)」を結成。劇団青俳では翻訳劇・創作劇を意欲的に上演。また、映画『億万長者』などの製作も行い、劇団の中心的存在として活躍する。一方、『人間魚雷回天』、『米』、『宮本武蔵』、『関の弥太っぺ』、『暗殺』、『雪国』など大作・話題作映画にも次々に出演。また、戦後左翼運動の台頭などで活発化した独立プロ運動に共鳴し、『山びこ学校』、『真空地帯』、『雲ながるる果てに』、『足摺岬』、『樹氷のよろめき』など独立プロ製作の作品にも多数出演し、スター俳優としての名声を確立した。しかし、「劇団青俳」の二本柱だった岡田英次がやや前衛的思考だったのに対し、木村は正統派の新劇を守っていこうという立場で、双方の意見にズレが生じ始める。1968年(昭和43年)、劇団内部の戯曲選出の意見の対立から「劇団青俳」は分裂。岡田は清水邦夫、蟹江敬三、蜷川幸雄らの「現代人劇場」に参加。1970年(昭和45年)には社長だった本田延三郎も離れ、テレビ・映画で活躍する著名俳優が次々と移籍、独立し、看板俳優は木村と織本順吉だけとなった。また、劇団社長が劇団以外で儲けようと音楽出版に出すなどの乱脈経営に乗り出し失敗。1979年(昭和54年)、「劇団青俳」は多額の負債を抱え倒産。自らも1.7億円の借金を背負うことになった。晩年はテレビのホームドラマなどにも出演していたが、1981年(昭和56年)に胃癌が発覚。以降はスケジュールをこなしながら通院していたが、癌はあちこちに転移し、徐々に痩せ衰えていった。7月4日午前3時30分、食道癌のため死去。享年58。


木村功(1923~1981)_f0368298_10594831.jpg

映画『七人の侍』の勝四郎役で知られる木村功。純粋無垢な勝四郎を演じた彼は当時30歳の2人の子持ち。あの瑞々しい演技はどう見ても少年剣士のようにしか見えず、実に役作りが上手いと感心させられた。その端整な顔立ちで戦後の映画界に颯爽と登場した木村功は、文芸映画や社会派リアリズム映画の話題作に出演し、二枚目スターとしての地位も確立した。晩年は劇団の解散、借金、癌との闘いなど、次々と不幸に見舞われ実に気の毒だった。58歳での死はさぞかし無念であったろう。永遠の演劇青年・木村功の墓は東京都府中市の多磨霊園にある。墓は妻・木村梢の父で作家の邦枝完二と同じ「邦枝家墓」に埋葬されている。墓誌はない。

by oku-taka | 2018-08-19 12:20 | 俳優・女優 | Comments(0)