2018年 08月 17日
岸田國士(1890~1954)

岸田 國士(きしだ くにお)
劇作家・作家
1890年(明治23年)~1954年(昭和29年)
1890年(明治23年)、陸軍軍人岸田庄蔵の長男として東京市四谷区右京町に生まれる。1897年(明治30年)、四谷尋常小學校に入学。1899年(明治32年)、父の転勤に伴い、名古屋市棣棠尋常小學校(現在の名古屋市立山吹小学校)へ転校。その後、名古屋第二高等小學校、名古屋陸軍地方幼年學校を経て、1907年(明治40年)東京の陸軍中央幼年学校に進学。しかし、次第に軍隊生活や軍人の気風に反発を覚えるようになり、フランス文学に興味を持つようになる。1910年(明治43年)、士官候補生として久留米歩兵第48連隊に配属となる。1912年(大正元年)には少尉に任官されるが、文学への思い止み難く、病気も重なったことから1914年(大正3年)に休職願を出して上京。結果、父の勘当を受けながらも軍籍を離れ、1917年(大正6年)東京帝国大学仏文科選科に入学した。在学中はフランス文学や近代演劇を学び、鈴木信太郎・辰野隆・豊島与志雄らと知悉を得る。1919年(大正8年)、渡仏を計画し、貨物船で神戸より台湾へ渡航。高雄から香港へ渡る。同地で三井物産仏印出張所長付通訳のを得、ベトナム北部の港湾都市ハイフォンに赴任。そこで3ヵ月を過ごした後、マルセイユへ向けて渡航した。翌年の1月にはマルセイユに到着し、その後にパリへ移動。生活のため、日本大使館、国際連盟事務局に嘱託として勤務する。一方で、ソルボンヌ大学に入ってフランス演劇史を研究。ジャック・コポーが主宰する小劇場ヴィユ・コロンビエ座やピトエフの一座に出入りし、当時フランスで盛んになっていた演劇純粋化運動に接した。1923年(大正12年)、父の訃報を受け帰国。その後、パリで執筆した処女戯曲『古い玩具』を豊島与志雄に見せたところ、山本有三を紹介される。翌年、山本有三編集の「演劇新潮」3月号に『古い玩具』を発表し、注目を集める。同年、戯曲『チロルの秋』を「演劇新潮」9月号に発表。1925年(大正14年)には、戯曲『軌道』を「演劇新潮」新年号、戯曲『命を弄ぶ男ふたり』を「演劇新潮」2月号、戯曲『ぶらんこ』を「演劇新潮」4月号、戯曲『紙風船』を「文藝春秋」5月号に発表し、新進の劇作家として注目される。その後も、『牛山ホテル』(1929年/昭和4年)、『歳月』(1935年/昭和10年)と次々に発表。犀利で繊細なニュアンスの会話で繰り広げられる作品は話題を呼び、一躍演劇界の寵児となった。その間、私淑するジュール・ルナール作品の翻訳も行い、『にんじん』、『博物誌』、『ぶどう畑のぶどう作り』など近代フランス戯曲の翻訳を多く残した。一方で小説の執筆にも取り組み、朝日新聞に連載した『由利旗江』(1929年~1930年/昭和4年~昭和5年)、雑誌「婦人公論」の『落葉日記』(1936年/昭和11年)などを発表した。1932年(昭和7年)、築地座の演出指導と顧問役に就任。1936年(昭和11年)、『現代演劇論』を発表。語られる言葉の美、劇的文体を追求すべきことを訴え、必ずしも戯曲の思想性、問題意識を排除するものではないことを説いた。それまでの新劇運動を批判し、フランスで学んだ演劇観を日本の土壌に移植することを目的としていた岸田は、1937年(昭和12年)に築地座を発展的に解消し、久保田万太郎、岩田豊雄(獅子文六)と共に劇団文学座を結成した。1938年(昭和13年)、明治大学の文芸科長に就任。演劇映画科を新設する。1940年(昭和15年)、明治大学文芸科長を退職。同年、軍部の文化統制に抗うため大政翼賛会文化部長に就任するも、大政翼賛会の官僚化を不満とし、1942年(昭和17年)の組織改編を機に文化部長を辞任する。しかし、この時の活動が原因で1947年(昭和22年)に公職追放の憂き目にあう。戦後は『椎茸(しいたけ)と雄弁』『道遠からん』などの社会風刺喜劇を発表。1950年(昭和25年)、「演劇」と「文学」との立体化を目指し、三島由紀夫、福田恒存、木下順二、千田是也、小林秀雄らと『雲の会』を結成。この会がきっかけになって、椎名麟三、石川淳、中村光夫、大岡昇平、石原慎太郎、武田泰淳といった小説家が戯曲を書き、舞台化された。1951年(昭和26年)、追放解除。文学座に復帰。1952年(昭和27年)、小説執筆中に脳神経麻痺を引起し、東大病院沖中内科に入院。2ヶ月後に退院して現場に復帰するも、1954年(昭和29年)3月4日、神田一ツ橋講堂で舞台稽古を監督中に脳卒中で倒れる。東京大学医学部附属病院沖中内科にて手当てを受けたが、5日午前6時32分に死去。享年63。没後、新劇運動の「芸術派」の理論的指導者としての功績を偲び、新潮社が「岸田演劇賞」を創設。第8回から白水社に移って「岸田戯曲賞」となり、さらに岸田國士戯曲賞と改称され、新人劇作家の登竜門として今日に至る。


日本の演劇に理想主義的な改革を試み、それまでの演劇をガラリと変えた岸田國士。今日の演劇はこの男によって確立されたといっても過言ではない。また、岸田衿子、岸田今日子という後世に名を残す二人の娘をも育てた。文学界、演劇界に残した功績は計り知れない。没後60年以上を経て語られることがめっきり少なくなった岸田國士の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。平面的に据えられた矩形石面の墓に記載はなく、墓所を囲っているブロック塀に墓誌がはめ込まれている。

