人気ブログランキング | 話題のタグを見る

赤塚不二夫(1935~2008)

赤塚不二夫(1935~2008)_f0368298_16165992.jpg

赤塚 不二夫(あかつか ふじお)

漫画家
1935年(昭和10年)~2008年(平成20年)


1935年(昭和10年)、満州国熱河省灤平県古北口古城裡(現在の中華人民共和国河北省承徳市灤平県と北京市密雲県古北口(中国語版)との境界線)に生まれる。本名は、赤塚 藤雄。父親である藤七は新潟県西蒲原郡四ツ合村井随(潟東村を経て現在は新潟市西蒲区潟東地区井随)の農家出身で地元の小学校を経て苦学の末、陸軍憲兵学校の卒業試験を2番目の成績で卒業し関東軍憲兵となったが、上官の理不尽ないい分が我慢できずに職を辞し、満州国警察古北口国境警察隊の保安局特務警察官として中満国境地帯で現地人への宣撫工作や、現地で抗日活動を行っていた東北抗日聯軍・八路軍等の抗日ゲリラや宋哲元・冀察政務委員会率いる国民革命軍第29軍と対峙して掃討・謀略(防諜)活動を行う特務機関員をしていた。父・藤七は非常に厳格でなおかつ権威的であり、『のらくろ』や中島菊夫の『日の丸旗之助』といった漫画を読むことを禁じられたり、箸の持ち方等で厳しくしつけられ、幼い頃の赤塚は恐怖感から父親が大の苦手であり畏怖を感じさせる存在だったという。 1945年(昭和20年)8月15日、奉天で終戦を迎える。父は侵攻してきた赤軍によってソビエト連邦へ連行され、軍事裁判にかけられて4年間シベリアに抑留される。奉天に残された家族は1946年(昭和21年)に海岸(渤海沿岸)の引揚船を目指して徒歩で引き揚げを始め、途中でソ連兵からの襲撃を受けてソ連軍憲兵(内務人民委員部政治将校)に助けられながらも6月15日に葫芦島から大発動艇で4日かけて佐世保港に到着。母の実家がある奈良県大和郡山市矢田口に移り、赤塚は地元の小学校に編入して小学5年生となった。 2学期の頃から貸本屋で5円で漫画を借りて読むようになり、このとき手塚治虫の『ロストワールド』に出会ったことで漫画家になることを決意。見よう見まねで手塚風の漫画の執筆に没頭する。12歳の時には『ダイヤモンド島』というSF長編漫画を描き、母親と一緒に大阪の三春書房という出版社へ最初の持ち込みを行ったが失敗した。1949年(昭和24年)秋、母親のわずかな稼ぎでは子供を養っていくことが困難であったため、父の郷里である新潟に住む父親の姉一家に預けられる。その年の暮れに父親が帰国し、母親を除いた父親と3人兄弟の4人一家は父の出身地であり赤塚の本籍地であった新潟県西蒲原郡四ツ合村井随(現在の新潟市西蒲区潟東地区井随)に移り、赤塚は四ツ合中学校(現在の新潟市立潟東中学校)へ転入した。1952年(昭和27年)に同校を卒業したが、家庭の金銭的な事情から高校進学を断念し、映画の看板を制作する新潟市内の看板屋に就職した。仕事柄、映画看板の制作に携わっていたことから花月劇場という映画館であらゆる映画を鑑賞することとなり、このときバスター・キートンや駅馬車、チャーリー・チャップリンの喜劇に感銘を受けた。また、『漫画少年』への投稿も始めた。手塚治虫が投稿作品を審査するコーナーがあり、この頃から自分の絵柄を模索し始めるようになる。 1954年(昭和29年)、父親の頼みもあって上京。父親の友人の紹介で就職した東京都江戸川区小松川のエビス科学工業所という化学薬品工場に勤務しながら『漫画少年』へ投稿を続けた。その漫画が石森章太郎(後の石ノ森章太郎)の目に留まり、石森が主宰する「東日本漫画研究会」が制作する肉筆回覧誌「墨汁一滴」の同人に参加。また既にプロの漫画家だったつげ義春が同じく赤塚の漫画に興味を持ち、しばしば遊びに来るようになった。『漫画少年』の突然の休刊後、つげからプロへの転向を勧められ、1956年(昭和31年)につげの仲介で曙出版と契約を交わし、描き下ろし単行本『嵐をこえて』でデビュー。同年、上京した石森を手伝う形でトキワ荘に移り、第二次新漫画党の結成に参加する。当時の赤塚は少女漫画の単行本を3〜4ヶ月に一冊描く貸本漫画家であり、原稿料の前借をして漫画を描く自転車操業状態にあった。また、この時期に石森のおごりで映画を浴びるほど鑑賞し、その経験が後の作品に活かされることになった。1958年(昭和33年)、作家不足に陥った『少女クラブ』増刊号で1作家1作品の原則を守りながら既存の作家で補うために編集者が石森との合作を企画。合作ペンネーム「いずみあすか」名義で作品を発表した。合作の楽しさから、続いて石森と水野英子との合作ペンネーム「U・マイア」で『赤い火と黒かみ』『星はかなしく』『くらやみの天使』を合作し発表。同年、ちばてつやの代原にトキワ荘の石森は赤塚を推薦し、秋田書店の名物編集者として知られる壁村耐三は赤塚に読切漫画を依頼。『まんが王』1958年11月号にギャグ漫画「ナマちゃんのにちよう日」を発表し、同年12月号より「ナマちゃん」のタイトルで赤塚に無断で連載が決定する。1961年(昭和36年)、アシスタントだった稲生登茂子との結婚のためにトキワ荘を退去。1962年(昭和37年)、『週刊少年サンデー』で「おそ松くん」、『りぼん』で「ひみつのアッコちゃん」の連載を開始し、一躍人気作家となる。1964年(昭和39年)、『おそ松くん』で第10回(昭和39年度)小学館漫画賞を受賞。1965年(昭和40年)、長谷邦夫、古谷三敏、横山孝雄、高井研一郎等と東京都新宿区十二社にフジオ・プロダクションを設立。また、トキワ荘時代の仲間が設立したアニメーション製作会社のスタジオ・ゼロに参加。1966年(昭和41年)には『おそ松くん』がスタジオ・ゼロ製作により毎日放送・NET(現:テレビ朝日)系でテレビアニメ化され、赤塚が監修として関わっている他、主題歌2本の作詞も手掛けている。1967年(昭和42年)、『週刊少年マガジン』にて「天才バカボン」、『週刊少年サンデー』にて「もーれつア太郎」を発表。天才ギャグ作家として時代の寵児となる。1969年(昭和44年)、『ひみつのアッコちゃん』と『もーれつア太郎』、1971年(昭和46年)には『天才バカボン』が相次いでテレビアニメ化された。1970年(昭和45年)、スタジオ・ゼロが事実上の解散。翌年に、元スタジオ・ゼロのアニメーター吉良敬三らとアニメーション制作会社「不二アートフィルム」を設立した。1972年(昭和47年)、『天才バカボン』他の作品で文藝春秋漫画賞を受賞。この受賞がきっかけとなり、週刊文春で『赤塚不二夫のギャグゲリラ』の連載がスタートし10年を超えるロングランとなる。 同年、フジオ・プロに財政的な余裕が生まれたため「赤塚不二夫責任編集」と題した雑誌『まんがNo.1』を創刊。しかし、1号につき250万円(一説にはトータルで5000万円)程の赤字を出し、1973年(昭和48年)に6号で休刊となった。 11月5日、3年の別居生活を経て妻・登茂子と正式離婚。1974年(昭和49年)、「週刊少年マガジン」(1974年1月6日第1号)掲載の特別企画「ギャグ界の独裁者 赤塚不二夫の秘密大百科」において、ギャグの一環として実験的に「山田一郎」とペンネームを改名することを宣言。「週刊文春」(1974年1月7日号)掲載の『ギャグゲリラ』を皮切りに、『天才バカボン』『レッツラゴン』を含む連載中の作品、新連載作品、読み切り作品等、全てのタイトルを同名義で執筆するも、広告サイドから苦情があり、3ヶ月で元に戻した。同年、これまでのギャグ漫画家としての功績が讃えられ、「週刊少年ジャンプ」にてギャグ漫画の登竜門「赤塚賞」が設立された。一方、この年の税務署の調査で税金の支払いが長期に渡り滞納していることが発覚。延滞金だけで6000万円ともされた。原因はフジオプロの経理担当者の横領によるもので被害額は二億円とも言われ、実印まで預け信頼していた人物による裏切りであった。失踪したこの人物は後日逮捕されるが、赤塚はこの人物の将来を考え告訴することはなかった。しかし、横領された二億円の中には古谷三敏や芳谷圭児といったフジオプロ所属の漫画家らのプール金もあり、このトラブルにより古谷、芳谷はフジオプロを退社。それぞれのスタッフを引き連れ、自身らの制作プロダクション・ファミリー企画を設立した。1975年(昭和50年)、『元祖天才バカボン』が日本テレビ系列で放映開始。この時期には漫画家としては最も多忙を極め、週刊誌5本の同時連載をこなす。一方で長谷邦夫の紹介によりタモリと出会う。 タモリを中枢とする芸能関係者との交流を深める中、1977年(昭和52年)を境に、ステージパフォーマンスに強い関心を示し、傾倒していく。1978年(昭和53年)、長らく主力作家として執筆していた「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」「週刊少年キング」での連載が全て終了する。 また、「月刊少年マガジン」12月号でも『天才バカボン』が終了し、以降執筆活動は縮小傾向をむかえる。1979年(昭和54年)3月31日、にっかつ配給による赤塚原案、面白グループ脚本によるロマンポルノ『赤塚不二夫のギャグ・ポルノ 気分を出してもう一度』が公開となる。6月23日には赤塚の原案・製作総指揮・脚本、面白グループが製作に関わったコメディー映画『下落合焼とりムービー』が公開。どちらも監督は山本晋也が務め、一部ファンからカルト的な人気を博する。1982年(昭和57年)、『ギャグゲリラ』の連載が終了。この頃より酒量が激増する。1987年(昭和62年)、アルコール依存症に陥った赤塚のサポートを行っていた、写真家の国玉照雄の元アシスタントでスタイリストの鈴木眞知子と結婚。結婚にあたっては先妻・登茂子が後押しし、保証人になっている。結婚記者会見には登茂子とりえ子も同席した。同年、テレビ東京の『マンガのひろば』枠で『元祖天才バカボン』が再放送され、小中学生を中心に「バカボン」人気が再熱した流れから、翌年よりアニメ『おそ松くん』が21年ぶりにリメイクされ、高視聴率をマークする。その後も『ひみつのアッコちゃん』『天才バカボン』(タイトルは『平成天才バカボン』)『もーれつア太郎』が続々とリメイク放映されるとともに、赤塚の手による新作漫画が『コミックボンボン』を中心とする講談社系児童雑誌に連載されるなど健在さを印象付けたが、リバイバル路線が終焉を迎えた1991年(平成2年)頃より更に酒量が増え始める。以後も治療のため入退院を繰り返すものの回復の兆しはなく、1992年(平成4年)には長年赤塚のアイデアブレーンとして支えてきた長谷がフジオプロを退社。1993年(平成5年)、亡き父母への愛情と賛歌を綴った自叙伝『これでいいのだ』を刊行。翌年にはNHKのドラマ新銀河枠で連続ドラマ化される。1997年(平成9年)、第26回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞。同年6月1日より、静岡県伊東市の池田20世紀美術館で「まんがバカなのだ 赤塚不二夫展」が開催され、好評を博す。デビュー前の貴重な習作から1990年代初頭までの間に描かれた名作、怪作、およそ200枚に及ぶ美麗な生原稿が展観出来るだけではなく、赤塚自ら肉体を駆使し、挑戦したエドヴァルト・ムンク、レオナルド・ダ・ヴィンチ、エドガール・ドガ、フィンセント・ファン・ゴッホといった歴史上の画家のパロディ・アートも展示。フロアには、バカボンのパパやイヤミの銅像が所狭しとディスプレイされるなど、美術館本来のイメージをぶち破る赤塚ならではの遊び心とウィットが沸き立った大回顧展となった。その後、この原画展は、上野の森美術館や横浜ランドマークプラザ、箱根彫刻の森美術館、京都美術館えきなど全国を巡業し、いずれも大入りを記録。特に上野の森美術館では、期間中65000人を集客し、ピカソ展やゴッホ展の記録を塗り替え、同美術館の動員新記録を樹立した。12月12日、吐血し緊急入院。精密検査の結果、食道がんと診断され22日に告知を受ける。医師から「2か月後には食べ物がのどを通らなくなる」と告げられ、「食道を摘出し小腸の一部を食道の代用として移植する」と今後の手術・治療の内容も告げられたが「小腸を食道に使ったら、口からウンチが出てきちゃうんじゃないの。」とギャグで返す気丈さを見せて24日には退院を強行。民間療法での治療を選択する。1998年(平成10年)、紫綬褒章を受章。 11月、食道がんが悪化し再入院。12月に10時間に及ぶ手術を受け、5か月間の長期入院を余儀なくされ体重は13キロ減少した。しかし酒とタバコはやめられず、退院後のインタビューでは水割りを片手にインタビューを受ける型破りなパフォーマンスを見せた。その後も毎月定期的にアルコール依存症治療の「ウォッシュアウト」のため入院を繰り返した。2000年(平成12年)8月25日、自宅内で転倒し頭を打つ。数時間後に言葉が不明瞭になったため緊急入院。検査の結果、急性硬膜下血腫と診断される。当初、手術は必要なしと判断されたが、その後右手に麻痺が出たため緊急手術。その後は順調に回復し、11月1日には退院を果たす。同年、点字の漫画絵本『赤塚不二夫のさわる絵本“よーいどん!”』を発表。ある日テレビで見た視覚障害を持つ子供たちに笑顔がなかったことにショックを受け、「この子たちを笑わせたい」という思いから制作したもので、点字本としては空前のベストセラーとなり、全国の盲学校に教材として寄贈された。なお、赤塚は同書を少しでも安い価格で提供するためにと、著作権料を辞退している。2001年(平成13年)2月8日、快気祝いを兼ねた新年会「赤塚大センセイを囲む会」が都内ホテルで催された。当初身内だけの予定が、漫画家仲間を含め約100名が駆け付ける「騒ぎ」に発展。相変わらず水割りを手離さずに新作の構想を語る様子が報道された。2002年(平成14年)4月10日、検査入院中にトイレで立とうとしたところ、身体が硬直し動けなくなる。脳内出血と診断され、5時間に及ぶ手術。これ以降、一切の創作活動を休止する。2004年(平成16年)には意識不明に陥り植物状態と化した。以後、一度も意識を戻すことはなく、2008年(平成20年)8月2日午後4時55分、肺炎のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去。享年74。


赤塚不二夫(1935~2008)_f0368298_16170034.jpg

赤塚不二夫(1935~2008)_f0368298_16170185.jpg

昭和を代表する漫画家の一人、赤塚不二夫。「おそ松くん」「天才バカボン」「ひみつのアッコちゃん」など数々のヒット作を世に送りだし、ギャグ漫画の王様といわれた。特にイヤミのギャグ「シェーー!!」は当時10歳であった徳仁親王(現在の皇太子)やビートルズ時代に来日したジョン・レノンが真似するほどの社会現象となった。一方テレビの仕事も多くこなし、その活動はタレント顔負けであった。中でもタモリの才能を見出し、芸能界に輩出した功績は非常に大きい。赤塚漫画のブームが過ぎ去った後年は酒に溺れ、ヤケクソになったように破天荒な生活へと落ちていった赤塚不二夫。自由気ままな人に見えたが、本当は人一倍繊細な心の持ち主だったのかもしれない。6年にわたる闘病生活の末に旅立っていった赤塚不二夫の墓は、東京都八王子市の富士見台霊園にある。墓には「赤塚家之墓」とあり、右横に墓誌が建つ。戒名は「不二院釋漫雄」
by oku-taka | 2018-08-12 21:04 | 漫画家 | Comments(0)