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宮本顕治(1908~2007)

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宮本 顕治(みやもと けんじ)

政治家
1908年(明治41年)~2007年(平成19年)


1908年(明治41年)、山口県光市上島田に生まれる。旧制徳山中学校から松山高等学校に進学。在学中に社会科学研究会を創立し、文芸誌『白亜紀』を発行するなどの活動をおこなった。その後、東京帝国大学経済学部に入学。 在学中の1929年(昭和4年)、芥川龍之介を論じた「『敗北』の文学」で雑誌『改造』の懸賞論文に当選し、文壇デビュー。1931年(昭和6年)3月、東京帝国大学経済学部を卒業。 1931年(昭和6年)、日本共産党に入党し、日本プロレタリア作家同盟に加盟。その後、党の中央アジテーション・プロパガンダ部員に就任した。1932年(昭和7年)、作家・中條百合子(宮本百合子)と事実婚。1932年3月から4月にかけてのプロレタリア文学運動への弾圧をきっかけに、地下活動に入る。1933年(昭和8年)1月、中央アジ・プロ部長に就任。4月、中央委員候補になり、5月、野呂栄太郎の最高指導者就任に伴い中央委員に昇格。また、野沢徹などの名前でプロレタリア文学運動の理論問題の論文を発表した。一方で、当時の党中央委員大泉兼蔵と小畑達夫にスパイ容疑があるとして査問処分を行うことを決定し、12月23日、二人を渋谷区内のアジトに誘い出した。 宮本らは針金等で手足を縛り、目隠しと猿轡をした上に押し入れ内に監禁した。秋笹正之輔、逸見重雄らが二人に対して暴行を行ったため、小畑は24日、外傷性ショックにより死亡した。小畑の死体は床下に埋められた。12月26日、街頭連絡中に逮捕されるが、警察・予審の取調べには黙秘を貫いた。その間に、逮捕されたほかの人間への取調べから警察が突き止めたアジトが捜索され、床下より小畑達夫の死体が発見された。宮本らに「査問」の最中に暴行を受けた末に外傷性ショックで死亡したと、裁判で認定された。この事件は日本共産党スパイ査問事件として、宮本は治安維持法違反だけでなく、この事件の加害者としても裁判で裁かれた。1934年(昭和9年)12月、市ヶ谷刑務所未決監に移監。同月、百合子との婚姻届を届け出た。これは、事実婚では面会などに制限が加えられていたので、それを避けるという意味合いもあった。これによって、百合子との往復書簡のやりとりが可能になった。このやりとりを通じて、顕治は百合子に文学や生活についての意見を表明して、弾圧や戦争の時代に、百合子の作家としての出処進退を一貫したものとするために助力した。また、百合子も、顕治に対して公判の維持のための資料の入手や作成に力を注ぎ、獄中での顕治を支えた。その点で、この夫婦は思想的に大きなぶれもなく戦後の時代を迎えた。宮本の病気のため裁判の開始は遅れ、逮捕から7年後の1940年(昭和15年)に公判が開始された。第二次世界大戦末期の1944年(昭和19年)12月5日に、東京地方裁判所は殺意は否定したものの小畑の死因はリンチによる外傷性ショック死であるとして、治安維持法違反、不法監禁、傷害致死、死体遺棄などにより無期懲役の有罪判決を下した。1945年(昭和20年)5月に大審院で上告棄却され無期懲役の判決確定(戦時特例により控訴審は無し)。6月、網走刑務所に移され、8月に終戦となった。 10月4日、GHQの指令「政治的市民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」が出され、これを受けて10月5日に司法省は政治犯の釈放を命じる。政治犯釈放を翌日に控えた10月9日に出獄。10月17日、勅令第580号勅令第580号(減刑令)により懲役20年に減刑。1946年(昭和21年)5月15日、GHQ民政局より日本政府に対して二人の復権を求める覚え書きが発給。5月29日、昭和20年勅令第730号(政治犯人等ノ資格回復ニ関スル件)に基づく復権証明書が発行され、二人の復権が決まった。共産党側は、この復権により一般刑法犯の有罪判決も治安維持法違反の一環としてなされた不当判決であり、無実であることが証明されたとしている。1951年(昭和26年)1月21日、百合子が死去。没後岩崎書店から刊行された『宮本百合子全集』の解説を書き、それをその後、単行本『宮本百合子の世界』にまとめた。この本は、現在でも百合子研究史上重要な位置を占めるものとされている。また、獄中にいたころの百合子との往復書簡を編集して『十二年の手紙』として刊行した。1954年(昭和29年)、『新日本文学』誌上で大西巨人と、野間宏の作品『真空地帯』の評価や新日本文学会の組織問題をめぐって論争。この頃は文芸評論家としての活躍が目立っていた。1950年(昭和25年)、コミンフォルムによる日本共産党への批判に対する態度をめぐって、党が所感派と国際派とに分裂。宮本は国際派のリーダー的存在となる。数の上では所感派が圧倒的多数であったが、その所感派の武装闘争方針が国民の支持を失わせる端緒となり、第25回衆議院議員総選挙、さらには翌年の第3回参議院議員通常選挙で党公認候補者が全員落選。国会議席が参議院の1人(須藤五郎)だけになるという最悪の結果につながる。1955年(昭和30年)3月、中央指導部員に就任。7月、六全協第1回中央委員会総会で中央機関紙編集委員に任命。8月、常任幹部会で責任者に就任。1958年(昭和33年)8月、第7回党大会1中総で、党書記長に選出された。この国際派の勝利により、党史の上では、所感派が分派となる。宮本が書記長を務めていた時期の日本共産党は朝鮮労働党と友好関係を結んでいた。宮本は1966年(昭和41年)、北ベトナムと中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国の三国を訪問。2番目の訪問先となった中国・上海で中国共産党主席毛沢東との会談に臨むが、この席上で毛は日本共産党の活動を「修正主義だ」と批判。当時始まったばかりだった文化大革命の路線に日本共産党も従うよう求めた。宮本は毛の発言を六全協、さらに第7回党大会で自身の手によって完全否定していた所感派を中心とする武装闘争路線の復活につながると受け取った。そして毛の意見を受け入れることはできないどころか、中国、ソ連への追従によって一度は壊滅的打撃を受けた過去の反省からも党としての関係を断つべきと宮本は判断し、日中両党関係は完全に決裂。宮本が議長を引退した翌年に後を継いだ不破哲三が「中国共産党側が過去の誤りを認めた」と述べて和解するまで30年以上も交流が断たれた。1968年(昭和43年)、北朝鮮を再訪問し、当時首相だった金日成と会談。宮本は金日成が考えていた武装南進政策に対して批判をした。1970年代初頭に、金日成の誕生日を祝うという『事業』が行われる頃から、両党の関係は冷却し、1983年(昭和58年)のラングーン事件において、日本共産党が朝鮮民主主義人民共和国当局の犯行であると表明して両党の関係は断絶した。1970年(昭和45年)7月、第11回党大会1中総で中央委員会幹部会委員長に選出。書記長のポストを廃止した。 1974年(昭和49年)6月26日、民社党中央執行委員長春日一幸は『毎日新聞』の参議院選挙取材で「スパイ査問」事件を取り上げ、「宮本は小畑をリンチで殺した」と主張。選挙での日本共産党批判に使った。日本共産党は「小畑は特異体質により死亡したもの」と抗議した。1975年(昭和50年)、12月10日発売の『文藝春秋』1976年1月号に掲載された立花隆の連載「日本共産党の研究」において裁判の公判記録が公開された。GHQ指令とそれを受けた司法省の政治犯釈放命令および復権は、純粋な政治犯に適用されるものであって、治安維持法違反とともに監禁致死罪など一般刑法犯でも有罪とされた宮本は本来は対象外であった。そのため、その両者に復権を要求したGHQの手続きが問題となり、この記事を発端として、宮本の復権に関する問題と、事件の詳細が国会でも論議された。この影響か、1976年(昭和51年)年の第34回衆議院議員総選挙では、共産党は議席を大きく減らした。 1977年(昭和52年)7月、第11回参議院議員通常選挙で全国区から初当選し、1989年(平成元年)まで2期12年務める。1982年(昭和57年)7月から8月にかけて開催された第16回大会1中総で中央委員会議長に選出された。 1990年(平成2年)、日本共産党第19回大会でルーマニアのチャウセスク問題や官僚的党運営を批判する意見が「赤旗評論特集版」に掲載されたが、反対意見の持ち主は党大会代議員に選出されることはなく、「宮本議長の冒頭発言」を含むすべての議案が満場一致で採択された。だが、この大会ではじめて、中央委員・准中央委員選挙の得票数を公表し、宮本顕治の不信任票は14票であり、当選順位は下から6番目であった。1994年(平成6年)の日本共産党第20回大会には病気で欠席し、大会へのメッセージを立木洋が代読した。宮本顕治の去就が注目されたが、「余人をもって代えがたい」として引き続き党中央委員に選出され、第1回中央委員会総会でも中央委員会議長・幹部会委員・常任幹部会委員に選出された。 1997年(平成9年)9月、第21回大会で欠席のまま「引退」し、「名誉議長」に退いた。この「引退」について筆坂秀世は著書『日本共産党』の中で、この大会の際にも宮本には議長を退任する意思がなく、不破哲三が大会期間中に東京都多摩市の宮本邸を訪問し、高齢であるから退任するよう要求し、宮本が渋々それを受け入れたと主張するが、不破哲三はそれに対する反論文の中で大会開催前から宮本の説得は完了しており(ただその説得の際に宮本が渋ったことは不破も触れている)、自分が大会中に東京へ戻って説得にあたったなどという事実はないと主張しており、意見が食い違っている。2000年(平成12年)11月、第22回大会で「名誉役員」に選ばれる。引退後は東京都多摩市聖蹟桜ヶ丘の私邸で隠遁生活を送り、日本共産党職員や家政婦が世話をしていた。晩年は体調不良により入退院を繰り返していたという。2007年(平成19年)7月18日2時33分、老衰のため東京都渋谷区の代々木病院で死去。享年98。


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共産党のドンとして長年君臨し続けた宮本顕治。そのカリスマ性と眼光の鋭さで共産党の議会主義制や、中国・ソ連といった海外の共産主義国家と距離を置く自主独立路線といった大胆な行動を実現させ、党勢の拡大と定着に大きく貢献した。毛沢東、金日成、スターリンといった曲者指導者たちの干渉にも負けなかったのは素直にすごいと思う。しかし、日本共産党スパイ査問事件での殺人や獄中生活を支えた宮本百合子を裏切り百合子の秘書と恋仲になるなど、その一連の行為は決して許されるものではなく、存命中にきちんと断罪されるべきであった。百合子の没後、その秘書と再婚しておきながら、獄中にいたころの百合子との往復書簡を『十二年の手紙』として刊行するなんて、宮本顕治はサイコパスなのではないかと思わざるを得ない。この本を作家の渡辺淳一が「愛の記録」として高く評価したそうだが、彼の見識の甘さに苦笑すると共に、こんな奴が長年直木賞の選考委員を務めていたのかと呆れてしまった。晩年の宮本顕治は共産党から見捨てられ、殆ど影響力を持っていなかったといわれる。思えば、昭和63年の国会で当時の衆議院予算委員長だったハマコー(浜田幸一)に共産党スパイ査問事件を蒸し返されて殺人者呼ばわりされてから、急速に勢力を失い始めたように思う。最終的には不破哲三に追い出され、政界から締め出されてしまった。これまでの独裁政権が仇となったのか、一時代を築いた指導者にはあまりに寂しい晩年となってしまった。日本を代表する左翼人・宮本顕治の墓は、東京都東村山市の小平霊園にある。食パンのような形をした墓には「宮本」とあるだけであり、墓誌はない。
by oku-taka | 2018-08-12 02:16 | 政治家・外交官 | Comments(0)