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坂田栄男(1920~2010)

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坂田 栄男(さかた えいお)

囲碁棋士
1920年(大正9年)~2010年(平成22年)


1920年(大正9年)、東京府荏原郡大森町(現在の東京都大田区)に生まれる。囲碁好きの父の影響で囲碁を覚え、1929年(昭和4年)増淵辰子二段に入門。翌年には日本棋院院生となる。1933年(昭和8年)、入段手合に挑むも、先輩達が長考を繰り返して徹夜勝負としたことで体力負けし、入段を逃す。このため、翌年からは入段手合にも持時間制が設けられた。1935年(昭和10年)、入段。1940年(昭和15年)、五段に上がり、当時では藤沢庫之助に続くスピード昇段を果たす。1943年(昭和18年)、『棋道』新鋭三羽烏勝抜争覇戦に出場。目標であった藤沢庫之助に初めて白番勝ちし、3勝1敗で優勝。同年、第3期本因坊戦では、五段級、六段級予選を勝ち抜くが、七段級予選で敗退した。1946年(昭和21年)、大手合で七段に昇段。1947年(昭和22年)、日本棋院に不満を訴え、前田陳爾七段、梶原武雄五段らと8棋士で囲碁新社を結成して日本棋院を脱退。1948年(昭和23年)、呉清源との三番碁を打つが、3連敗する。次いで梶原も先番逆コミで呉に敗れて意気消沈し、翌年に全棋士が日本棋院へ復帰した。1951年(昭和26年)、第1期日本棋院最高段者トーナメントで、細川千仭との決勝を2-0で勝利し、初の棋戦優勝。第6期本因坊戦リーグで、木谷實、長谷川章と3人が3勝2敗の同率となったが、坂田が同率決戦で2連勝して挑戦者となる。この前年に橋本宇太郎が本因坊位を持って関西棋院の独立をしていたことから、日本棋院の本因坊奪還の期待を一身に背負っての挑戦手合となるが、3勝1敗後の3連敗で橋本に敗れる。 1952年(昭和27年)、四強リーグ戦に優勝。これにより、1953年(昭和28年)には呉清源と六番碁を打ち、4勝1敗1ジゴとする。呉に勝ち越したことで世間の注目を集めるようになり、さらに呉と十番碁を打つが、8局目で2勝6敗となり定先に打ち込まれる。 1955年(昭和30年)、大手合で日本棋院では藤沢庫之助に次いで二人目の九段昇段。同年、第1期最高位戦のリーグ戦で杉内雅男七段と同率1位となり、前年度リーグ1位の坂田が最高位となる。また三冠だった高川格から日本棋院選手権を奪い、以後7連覇を果たす。1959年(昭和34年)、日本最強決定戦、最高位戦、日本棋院選手権戦、NHK杯戦の4冠となり、実力者としての評価を固める。本因坊戦では前回の挑戦以後、リーグ同率1位で決定戦敗退3回、リーグ2位が2回と雌伏するが、1961年(昭和36年)に同率決戦で木谷實に勝利し、9連覇中の高川格に挑戦。4勝1敗で勝利して本因坊となり、本因坊栄寿と号す。以後7連覇し、名誉本因坊の資格を得る。また、高川から本因坊、王座、日本棋院第一位の3タイトルを奪った他、最高位・最強位・日本棋院選手権・NHK杯を合わせて7タイトル制覇の記録を作る。1963年(昭和38年)、第2期名人戦のリーグ最終戦で呉清源を破り6勝1敗で挑戦権を獲得。藤沢秀行との挑戦手合を4-3で制し、名人本因坊を併せ持って棋界の第一人者となる。1964年(昭和39年)、名人・本因坊・日本棋院選手権・プロ十傑戦・王座・日本棋院第一位・NHK杯と、再度の7タイトルを制覇。本因坊戦では、挑戦者の高川格、山部俊郎、藤沢秀行を4-0で退け、その前期の高川戦、次期の林海峰戦を合わせ17連勝と圧倒的な強さを見せた。 1965年(昭和40年)、名人2連覇後に当時23歳の林海峰の挑戦を受け、「20代の名人はありえない」と語り、坂田有利の予想の中、2-4で名人位を奪われる。続いて翌年、翌々年のリターンマッチも敗れる。本因坊戦でも1967年(昭和42年)の林海峰の挑戦は退けるが、翌年には敗れ、第一人者の座を明け渡すこととなった。しかし、その後は十段・王座・日本棋院選手権者などのタイトルを獲得。特に1972年(昭和47年)から1973年(昭和48年)にかけては4つのタイトルを保持して「第二の黄金期」と呼ばれ、秀哉賞・棋道賞最優秀棋士賞も受賞した。 1975年(昭和50年)、本因坊戦に5年ぶりに登場。4連覇中の石田芳夫に挑戦し、3勝1敗とした第5局でも投了寸前まで追い詰めるが、攻め合いのミスで敗れ、結局3-4で本因坊復位はならなかった。1978年(昭和53年)、棋聖戦全段争覇戦で優勝。最高棋士決定戦も決勝三番勝負まで勝ち進むが、石田芳夫に1-2で敗退した。同年、第4期名人戦に史上最年長59歳で挑戦者となるが、大竹英雄名人に1-4で敗れた。 1980年(昭和55年)、紫綬褒章を受章。1982年(昭和57年)、NHK杯戦で11回目の優勝。名誉NHK杯選手権者の称号を得る。1983年(昭和58年)、NEC杯戦に優勝してタイトル獲得数を64とした。1984年(昭和59年)、日本棋院理事長に就任。職に専念するため1年間休場。 1989年(平成元年)、本因坊リーグ入りし、古希を迎えリーグで活躍した。1990年(平成2年)、勲二等瑞宝章を受章。1992年(平成4年)には囲碁界初の文化功労者に選出された。1998年(平成10年)、二十三世本因坊を名乗ることを認められる。2000年(平成12年)、体力と視力の衰えにより80歳の誕生日をもって引退。 2010年(平成22年)10月22日午後0時21分、胸部大動脈瘤破裂ののため東京都内の病院で死去。享年90。


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「カミソリ坂田」「しのぎの坂田」の異名で鋭い棋風で史上初の名人・本因坊となった囲碁棋士・坂田栄男。数々の妙手、鬼手と呼ばれる手を残し、呉清源と共に昭和最強の囲碁棋士と評された。好敵手・藤沢秀行とは、ライバルとして激しい戦いをくりかえし、中でも昭和38年の名人戦は今も語り継がれている伝説の一戦となった。坂田が2連勝のあと3連敗とカド番に追い詰められるが、ここで坂田が封じ手の定刻間際に着手。自分に封じ手をさせようという坂田の作戦に怒った藤沢名人が、すかさず次の手を打つが、坂田も間髪入れずに着手し、藤沢に封じ手をさせた。ここから坂田が連勝して、4勝3敗で藤沢をくだすことになった。この一戦のせいなのか二人は犬猿の仲となり、顔が合うと目はそらし、口もきかないという状態が晩年まで続いた。普通引退すれば昔の出来事は水に流して和解するものだが、結局二人は和解することなく黄泉に旅立っていった。破天荒と言われた勝負師二人らしいエピソードである。そんな坂田栄男の墓は、東京都東村山市の小平霊園にある。洋形の墓には直筆による「坂田」の字が彫られ、右横に墓誌が建つ。

by oku-taka | 2018-08-11 22:11 | スポーツ | Comments(0)