2018年 08月 10日
菊池章子(1924~2002)

菊池 章子(きくち あきこ)
歌手
1924年(大正13年)~2002年(平成14年)
1924年(大正13年)、東京市下谷(現在の東京都文京区本郷)に生まれる。本名は、菊池 郁子(きくち いくこ)。幼少期は芸事が好きな母の影響と花嫁修行の一環として活花、裁縫、書道、茶道、水泳、唱歌、琵琶と様々な習い事をさせられる。特に琵琶は4歳で畑秀水(錦心流)のもとに入門してから並外れた才能を開花させ、8歳には師範・免許皆伝となり、菊池錦祠(後に菊池祠水)を襲名した。しかし、芸事が嫌いだった郁子は、13歳のときに友人の紹介で日本歌謡学院に入校。同校主催の作曲家・大村能章に見出され、テイチク、ポリドール、コロムビアのテストを受け、いずれも合格。大村の勧めもあって、1937年(昭和12年)にコロムビアへ入社し専属となった。翌年、『噯噯噯』でデビューをするも、検閲により発売禁止という憂き目に合う。続いて吹き込んだ『南京花言葉』も検閲により発売禁止。結果、1939年(昭和14年)の『お嫁に行くなら』が正式なレコードデビューとなった。1940年(昭和15年)、渡辺はま子・ミス・コロムビアと歌った『愛馬花嫁』、霧島昇と歌った『相呼ぶ歌』が立て続けにヒット。1943年(昭和18年)にはソロで歌った『湖畔の乙女』が大ヒットし、ヒット歌手の仲間入りを果たした。1946年(昭和21年)、サックス奏者で作曲家の大久保徳二郎と結婚。これを機に所属していたコロムビアを離れ、大久保の所属するテイチクへ移籍した。1947年(昭和22年)には、娼婦に身をやつした女性の心情を歌った『星の流れに』を発表。当初『こんな女に誰がした』としていたが「日本人の対米感情を煽る恐れがある」との理由からGHQの検閲に引っかかり『星の流れに』へと改題。しかし、奈良県の教育委員会から「詩の内容は社会教育的にいかがなものか」とこの歌の発売自粛を訴えられる。テイチクは宣伝を自粛する形で発売に踏み切ったものの、このことが響きNHK等での放送が見合わされてしまう。しかし、章子はステージ等で粘り強く歌い続けた結果、当時パンパンと呼ばれた「夜の女」によって口ずさまれるようになり、発売から半年が過ぎた頃から徐々にヒット。1948年(昭和23年)、映画『肉体の門』の挿入歌として『星の流れに』が使われたことでさらに広く知れ渡り、結果「こんな女に誰がした」という歌詞が流行語になるほどの大ヒットとなった。1949年(昭和24年)、『母紅梅の唄』がヒット。以後、三益愛子の母物映画の主題歌を担当し「母物の菊池」と呼ばれた。1954年(昭和29年)には、息子が乗っていると信じ引揚船を待ち続ける母の姿を歌った「岸壁の母」がヒットした。しかし、当時は歌手の新旧交代がハッキリしだし、戦前・戦中派の歌手によるヒットは殆ど無く、章子もヒットから遠ざかるようになる。1956年(昭和31年)、大久保徳二郎と離婚。1957年(昭和32年)にはビクターへ移籍するもヒット曲には恵まれず、次第に歌手業から遠ざかり、渋谷の道玄坂でレコード店「キクチ」を経営する。1967年(昭和42年)、歌手として復帰。折しも懐メロブームが到来し、歌番組などに積極的に出演する。 1977年(昭和52年)、ディック・ミネプロデュースによる『沖縄の母』を発売。以降も中国孤児の心境を歌った『きずな』(1985・昭和60年)、『白鷺の湖』(1990・平成2年)と新曲をコンスタントに発表し続けた。2000年(平成12年)、勲四等瑞宝章を受章。この頃から体調を崩しがちになり、入退院を繰り返すようになる。2002年(平成14年)4月7日、心不全で死去。享年79。

時代に翻弄された女の悲哀を高らかに歌い続けた菊池章子。『星の流れに』『岸壁の母』という戦後の歌謡史に輝く二大名曲を世に送り出し、『母紅梅の唄』からなる一連の母物シリーズで有名な彼女を知る人も今やだいぶ少なくなってしまった。菊池は亡くなるまで現役歌手ということにこだわり、毎年新曲を出して健在ぶりをアピールし続けた。「私は懐メロ歌手なんかじゃない。現役の歌手なんだから」との言葉には、お嬢様で育った彼女のプライドの高さが伺える。穏やかな笑顔と物腰柔らかそうな喋り方から優しい人のように見えるが、なかなかの毒舌家で、性格のキツイお人であった…淡谷のり子が妹のように可愛がったのも頷ける。そんな菊池章子の墓は、東京都東村山市の小平霊園にある。墓には「菊池家之墓」とあるのみで墓誌はない。

