2018年 08月 09日
加藤周一(1919~2008)

加藤 周一(かとう しゅういち)
評論家
1919年(大正8年)~2008年(平成20年)
1919年(大正8年)、東京府豊多摩郡渋谷町金王町(現在の東京都渋谷区渋谷)に生まれる。幼少期は病弱で、雑誌「子供の科学」や音楽家の兼常清佐などの本を読み耽る。その後、渋谷町立常磐松尋常小学校(現在の渋谷区立常磐松小学校)、東京府立一中(現在の東京都立日比谷高等学校)に進学。この頃より文学に強い興味を抱くが、父が反対し文学者の道を諦める。また、父が医者、母の兄が帝国大学医学部卒の医者だったが若死していたことから、祖父と母の祈願を叶えるため医師の道を目指す。1936年(昭和11年)、旧制第一高等学校理科乙類(現在の東京大学教養学部)に入学。この頃も文学に関心はあったが、理科乙類には文学の授業や日本や世界の歴史の授業は皆無であり、自分にそうした教養がないことから古典文学を乱読する日々を送る。1940年(昭和15年)、東京帝国大学医学部に進学。同年、肺炎と湿性肋膜炎を発症し、徴兵猶予となる。1941年(昭和16年)、文学部で2年上級の福永武彦、1年上級の中村真一郎と出会う。翌年には「マチネ・ポエティク」を結成し、定型詩の詩作や韻律を持った日本語詩を発表した。1943年(昭和18年)、東京帝国大医学部を繰上げ卒業。東大附属病院医局佐々内科に副手として勤務し、無給医局員として働く一方で血液学を研究する。その傍ら、小説や文芸評論を執筆。また新定型詩運動も進めていた。1947年(昭和22年)、中村真一郎・福永武彦との共著『一九四六・文学的考察』を発表し注目される。同年、『近代文学』の同人となり、文芸批評を発表した。1949年(昭和24年)、『ある晴れた日に』を発表し、小説家としても活動する。1951年(昭和26年)、第2回半給費留学生・医学研究生としてフランスに渡る。パリ大学などで血液学研究に従事する一方、日本の雑誌や新聞に文明批評や文芸評論を発表。1955年(昭和30年)、帰国。国際的な視野で日本文化を再検討するという課題をみずからに課し、「日本文化の雑種性」などの評論を発表。翌年にはそれらの成果を『雑種文化』にまとめて刊行。明晰な文体と分析力で日本文化の雑種性を鋭く指摘し、雑種文化論は日本文化に対する問題提起として大きな議論を呼んだ。1958年(昭和33年)、伊藤整、野間宏、遠藤周作と共に第2回アジア・アフリカ作家会議準備委員会書記局員としてウズペック共和国タシュケントを訪問。これを機に医業を廃し、以後評論家として独立した。 その後、荒正人らの『近代文学』、つぎに花田清輝らの『綜合文化』、中野重治らの『新日本文学』などを拠り所に精力的な文筆活動を展開。1960年(昭和35年)の安保闘争においては、改定反対の立場から積極的に発言した。同年、カナダのブリティッシュコロンビア大学に招聘され、日本の古典の講義をおこなった。以後、国内外の大学で教鞭をとりながら執筆活動を続けた。1965年(昭和30年)、1965(昭和40)、2月の米軍ベトナム北爆、4月のべ平連デモ開始を受け、丸山真男・田中慎次郎・都留重人・豊田利幸・中野好夫と6名連名で「ベトナム問題に関し日本政府に提案する」を立ち上げる。1968年(昭和43年)、自伝『羊の歌』を発表。若い世代を中心に多くの読者を得た。1976年(昭和51年)、古代から現代にいたる日本文学の流れを大胆に通観した『日本文学史序説』を刊行。西洋の影響を受けながら伝統を独自に築いた日本文学史を世界的な視点から論証して一つの指標を提出し、1980年(昭和55年)に大仏次郎賞を受賞した。1979年(昭和54年)、「朝日新聞」夕刊に「山中人閒話」を連載。1984年には「夕陽妄語」と改題し、亡くなる直前まで連載していた。同年、『大百科事典』(平凡社)の編集長を担当。これをもとにした1988年(昭和63年)版『世界大百科事典』の編集長をもつとめ、その「富岡鉄斎」「日本」「日本文学」「林達夫」「批評」の項目を執筆した。1985年(昭和60年)、フランス政府より芸術文化勲章シュヴァリエを授与される。1994年(平成6年)、朝日賞を受賞。2000年(平成12年)、フランス政府からレジオンドヌール勲章(オフィシエ賞)を授与される。 2004年(平成16年)、大江健三郎・鶴見俊輔・澤時久枝らと憲法9条を守るため「九条の会」を結成。2008年(平成20年)5月、体調不良のため検査を受けたところ進行性の胃癌が発覚。8月19日、自宅で世田谷区のカルメル修道会上野毛カトリック教会の大瀬高司神父からカトリックの洗礼を受け、洗礼名ルカを与えられる。9月19日、意識がなくなり昏睡状態に陥る。12月5日午後2時5分、多臓器不全のため世田谷区船橋の有隣病院で死去。享年89。


和洋にまたがる幅広く深い教養をもとに、政治や社会・文化を論じた評論家・加藤周一。「知の巨人」と呼ばれた彼であったが、吉本隆明から「加藤周一は女性にモテモテだから書くものがダメになるのだ」と評され、開高健は丸山真男に「あの人(加藤周一)に文学がわかると思いますか?」と問うなど、正直評価の分かれる人であった。確かに彼が持っていた知識の量は並大抵のものではない。しかし、それについて討論したり文章を書いて表現したりという事については、決して上手い人でなかったように思う。それだけに、一般の人からの支持を得られても、著名な有識者たちからは疑問の声が向けられた。それでも加藤は第一線で声を上げ続け、時に権力と真っ向から闘い、戦後を代表する評論家にまで上り詰めた。そんな彼も晩年「死後は母と妹と穏やかに暮らしたい」と洗礼を受け、今は東京都東村山市の小平霊園に母と共に眠っている。洋形の墓には「加藤」とあり、背面に墓誌が刻まれている。

