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南田洋子(1933~2009)

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南田 洋子(みなみだ ようこ)

女優
1933年(昭和8年)~2009年(平成21年)


1933年(昭和8年)、東京府東京市芝区三田に生まれる。本名は、加藤(旧姓:北田)洋子。母親は日本舞踊の師匠をしていた。終戦後は茨城県土浦市に移り、女学校に通いながら両親とともに行商や露天商などを経験する。1949年(昭和24年)、茨城県土浦第一高等女学校(現在のつくば国際大学高等学校)を卒業。16歳で単身上京し、文化学院に入学。在学中は歌舞伎座の三階席に通い詰め、その姿に目を留めた支配人から初代・水谷八重子を紹介され、付き人として弟子入りする。1951年(昭和26年)、アルバイトの延長の気持ちで受けた大映5期のニューフェイスに合格し入社。1952年(昭和27年)、『美女と盗賊』で女優デビューを果たす。 1953年(昭和28年)、若尾文子と共演した『十代の性典』が大ヒット。好評によってシリーズ化され、「性典スター」と呼ばれた。 1954年(昭和29年)には『近松物語』、『楊貴妃』と溝口健二監督作品に連続出演し、スターの地位を着実に築いていった。1955年(昭和30年)、大映から日活に移籍。移籍第1作『沙羅の花の峠』では主演を務め、その後も順調に作品数を重ねていくが、1956年(昭和31年)の春に体調を崩して入院。その際、芥川賞を受けた石原慎太郎の『太陽の季節』を読んで感銘を受け、映画化を常務に進言。それが実現し、南田主演の『太陽の季節』は大ヒットとなった。同作ではW主演となった長門裕之と初共演し、親交を深めた二人は5年後に結婚となった。一方、女優としてはその後も『わが町』(1956/昭和31年)、『幕末太陽伝』、『美徳のよろめき』(1957/昭和32年)、『盗まれた欲情』(1958/昭和33年)などのヒット作に出演し、名実ともに日活の看板スターとなった。また、日活の基軸となっていくるアクション路線では、バーのマダムや情婦といった役柄で挑み、ヴァンプ的魅力を発揮していくようになる。 1963年(昭和38年)、『競輪上人行状記』『サムライの子』でブルーリボン助演女優賞を受賞。同年、日活を退社しフリーとなる。1964年(昭和39年)、長門とともに「人間プロダクション」を設立。太田博之、島かおりなどを育てると同時にドラマ制作にも乗り出す。また、本名の「かとうようこ」をペンネームにして連続ドラマの脚本も手掛けるようになる。1965年(昭和40年)、長門と2人で『ミュージックフェア』の司会に就任。約16年間務めた。同年、NHKの『紀ノ川』で日本放送作家協会女性演技賞を受賞。 1970年(昭和45年)、NHK朝の連続テレビ小説『虹』のヒロインに抜擢され主演を務める。1978年(昭和53年)、病気で降板したうつみ宮土理の後を継いで『クイズダービー』の4代目2枠レギュラー解答者として約1年間出演する。その他、多くのバラエティ番組やCM、ドラマなどへ出演しており、おしどり夫婦のイメージのもとに最晩年まで多彩な活動をしていた。また、十数年ごとに自宅を建て替え、その際は南田が自ら図面を引いていたが、その建て替えのたびに、建設費用の高額さと建て替えまでの期間の短さがワイドショーで取り上げられていた。長門は「まだ住めるのに」とインタビューで不満を漏らすことがあったが、「洋子の趣味だから仕方ない」と許容する度量を見せている。1998年(平成10年)、舅・沢村國太郎の介護の経験を中心に綴った『介護のあのとき』を出版し話題となる。その後も女優として精力的に活躍していたが、2004年(平成16年)頃から認知症の症状が表れ始め、ドラマや映画の台詞が覚えられなくなるほど悪化。2006年(平成18年)に芸能活動をひっそりと引退。専門医によりアルツハイマー病との診断が下された。その後、長門が雑誌などで南田が引退したことをそれとなく語っていたが、やがて女性週刊誌などが南田の病状について報道し出し、2008年(平成20年)長門が『徹子の部屋』へゲスト出演した際に、夫婦共々深い親交がある黒柳徹子へ南田が認知症で要介護状態であること打ち明け、南田の病状を初めて公表。同年には『報道発 ドキュメンタリ宣言』の第1回放送(11月3日)で長門との闘病の模様が放送され、高視聴率を記録するなど、大きな反響を呼んだ。 2009年(平成21年)4月1日、意識混濁状態となり救急車で都内の病院に緊急入院(同月18日に退院)。長門は記者会見で「混濁した中でも、僕を一瞬認めて笑った気がします」と涙を浮かべながらも気丈に、南田の状況についてコメントした。翌5月には長門著『待ってくれ、洋子』(主婦と生活社)が出版された。同年10月9日放送の『中居正広の金曜日のスマたちへ』で長門夫妻を取り上げた際には、取材VTRの中で、車椅子姿の南田が顔なじみのスタッフにねぎらいの言葉を掛ける一幕もあった。その取材映像が南田洋子の生涯最後の公の映像となった。 10月17日、自宅で倒れ、クモ膜下出血との診断を受けて都内の病院に再入院。危篤状況が続いていたが、意識が戻らず、同10月21日に死去。享年76。 夫の長門は明治座で舞台公演の仕事があった為に、南田の最期を看取ることは出来ず、10月21日の夜に「さよならも言わずに…、この世を去りました…」と悲しみの記者会見を執り行った。


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気品さあふれる女優として映画・テレビ・舞台と幅広く活躍した南田洋子。私生活では長門裕之とのおしどり夫婦で知られたが、長門のスキャンダル、映画製作による借金の返済、舅の介護、姑との確執と私生活は波乱万丈であった。果ては自身が認知症を発症し、日活の一時代を築いた女優の最期はあまりに悲しいものであった。彼女にとって長門裕之との結婚は幸せだったのだろうか。彼女の訃報に際してこの思いを真っ先に抱いたが、こればかりは当人にしかわからない。戦後の映画界を凛として生きた南田洋子の墓は、東京都中野区の高徳寺にある。墓には「加藤家之墓」とあり、入口に墓誌が建つ。戒名は「華徳院釋尼洋愛」

by oku-taka | 2018-07-22 22:07 | 俳優・女優 | Comments(0)