2018年 07月 22日
長門裕之(1934~2011)
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長門 裕之(ながと ひろゆき)
俳優
1934年(昭和9年)~2011年(平成23年)
1934年(昭和9年)、四代目・沢村国太郎、マキノ智子の長男として京都府京都市中京区に生まれる。本名は、加藤 晃夫(かとう あきお)。弟・津川雅彦、母方の祖父は日本映画の父・マキノ省三、伯父がマキノ雅広、さらには父方の叔母が沢村貞子、叔父が加東大介という芸能一家で育つ。そうした環境下から、1940年(昭和15年)に澤村アキヲの芸名でマキノ雅広(当時は正傳)監督『続清水港』で映画初出演。1943年(昭和18年)、稲垣浩監督の『無法松の一生』に沢村晃夫の芸名で出演。主演の阪東妻三郎を相手に素直な演技を披露し、名子役と謳われるようになる。しかし、1948年(昭和23年)の『手をつなぐ子等』を最後にしばらくの間は学業に専念。1951年(昭和26年)、花園高等学校を卒業し、立命館大学文学部国文科に入学。これを機に芸名を長門裕之と改め、映画出演を再開。『大江戸五人男』を皮きりに、叔父・マキノ雅広(当時は雅弘)監督の代表作『次郎長三国志』シリーズに島の喜代蔵役で出演した。1953年(昭和28年)、大学を中退して俳優稼業に絞る。東宝に入社するもすぐにフリーとなり、まもなくして製作再開したばかりの日活に入社。1955年(昭和30年)、『七つボタン』で映画初主演を果たす。その後も『未成年』(1955/昭和30年)、『愛情』(1956/昭和31年)などに出演。1956年(昭和31年)、太陽族映画の走りとなった『太陽の季節』に主演。同作で初共演となった南田洋子は当時大映から日活に移籍してきた“大物女優”であり、南田は日活の専用車で自宅まで送り迎えをしてもらう身分であった。まだ“駆け出しの俳優”であった長門は、偶然南田の自宅と長門の自宅が同じ方向であることが分かり、運良く長門が南田を送迎する車に一緒に乗せてもらうことになった。長門はこのチャンスを生かし、毎日車の中で南田に猛アタックをし続け、その結果長門は憧れていた格上の南田洋子の彼氏となった。その後、デビュー間もない石原裕次郎の人気におされる形で青春映画の主役の座を追われるが、1958年(昭和33年)の今村昌平監督『盗まれた欲情』で演じたインテリ青年役で、それまで見せたことのない飄々としたユーモラスな存在感を披露し、演技開眼となった。1954年(昭和34年)には『にあんちゃん』でブルーリボン主演男優賞を受賞。その後も、『豚と軍艦』(1961/昭和36年)、『にっぽん昆虫記』(1963/昭和38年)と今村監督作品に出演し続けた。1961年(昭和36年)、「自分の年収が南田の年収より多くなるまでは南田と結婚しない」と決めた目標が達成されたことから南田洋子と結婚。1962年(昭和37年)、日活を退社してフリーとなる。以降は吉田喜重監督の『秋津温泉』(1962/昭和37年)や黒木和雄監督の『飛べない沈黙』(1966/昭和41年)などの異色作に出演。『日本侠客伝・浪花篇』(1965/昭和40年)などの任侠路線ではコメディ・リリーフ的存在感を発揮するなど、味のあるバイプレイヤーとしての地位を確立していった。1964年(昭和39年)には『古都』で毎日映画コンクール助演男優賞を受賞した。同年、映画スター達が独立プロダクションを設立する当時の流れに乗り、長門も人間プロダクションを設立。太田博之、島かおりなどを育てると同時に、自ら祖父マキノ省三を演じ話題となった『カツドウ屋一代』といった制作本意の意欲作ドラマを作るが、それが祟り赤字を出してしまう。そうした経緯から次第にテレビに活躍の場を移し、1965年(昭和40年)にはフジテレビの音楽番組『ミュージックフェア』の司会を妻の南田洋子と共に担当。おしどり夫婦の絶妙な掛け合いがお茶の間の支持を集め、16年もの間を夫婦で司会を務めた。テレビドラマにも積極的に出演し、TBS『赤い疑惑』、『少女に何が起こったか』、日本テレビ『池中玄太80キロ』などで印象深い役を演じた。1982年(昭和57年)、KBS京都が主催する交通遺児支援のチャリティー番組『かたつむり大作戦』のキャンペーンパーソナリティーを担当。同キャンペーン終了までの23年間にわたり出演を続けた。1985年(昭和60年)、『洋子へ』を出版。南田への告白という形で、自身の奔放な女性関係などを実名で赤裸々に記し、いわゆる暴露本として世を騒がせた。これに対し、実名を書かれた池内淳子などが強く反発。長門側は初版を回収し、問題箇所を書き直した改訂版を出したうえ、池内に対しては新聞に謝罪広告を掲載した。長門は「ゴーストライターによる口述筆記だったため真意が伝わらなかった」などと弁明したが、南田とともにすべての出演番組とCMの降板を余儀なくされるなど、この騒動が以後の芸能活動に大きなダメージを与えた。ワイドショーの多数の取材を受け、「こんな本はダメです!」と自著を机に叩き付ける場面が繰り返し放映された。その後、主にテレビドラマでの敵役や癖のある役を多くこなし、長年かけて復調した。特に『スケバン刑事』シリーズの暗闇指令役で当時の若者層にも広くその存在が認知された。2008年(平成20年)、『徹子の部屋』出演時に妻の南田洋子が認知症を患っていることを告白。11月に放送されたドキュメンタリー番組での密着特集では、その生々しい介護の様子と日常生活が明らかとなり反響を呼んだ。視聴率は関東で22.9%、関西で20.6%、瞬間最高視聴率は27%と2008年のテレビ朝日放映番組1位の視聴率を獲得。その後も「苦労をかけた洋子への恩返し」として南田の介護に取り組みつつ、「リタイアした洋子の分まで」と発起し、精力的に俳優活動を行った。また、長年確執があったとされた弟・津川雅彦との共演も増やし、津川がマキノ雅彦名義で監督を務めた作品にも出演した。2009年(平成21年)10月21日、妻・南田洋子がクモ膜下出血により76歳で死去。倒れた前日に続き、当日も明治座での舞台公演後に記者会見を開き、「これからは女房のない世界に踏み出していきます。思い出の中で洋子は生きてますから。これは永遠のものです」「4年間、僕が介護することで、僕の人生をよみがえらせてくれて、人生観を変えてくれました」と涙を浮かべながら記者陣に対してコメントを述べた。南田の死から1年7か月後の2011年(平成23年)5月21日午後5時20分、肺炎と動脈硬化などの合併症のため東京都文京区の順天堂医院で死去。享年77。
![長門裕之(1934~2011)_f0368298_03055967.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201807/22/98/f0368298_03055967.jpg)
![長門裕之(1934~2011)_f0368298_03055817.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201807/22/98/f0368298_03055817.jpg)
芸能の一族として知られるマキノ一家。その中でも演技派の役者として活躍したのが長門裕之である。『にあんちゃん』では両親をなくした家庭の稼ぎ手として苦境に負けず明るく生きる二番目の兄を、『豚と軍艦』では滑稽なチンピラを、『拝啓天皇陛下様』では戦友・山田正助を温かく見守る作家志望の男・ムネさんを、赤いシリーズや『少女に何が起こったか』といった大映ドラマで見せた憎々しい役、池中玄太と毎回激しい口論を繰り広げるも心の底では信頼を寄せている編集長の楠公さん…私生活は幾多のスキャンダルにまみれたどうしようもない人だったが、役者としては文句なしの名優であった。その禊をするかのように、晩年は認知症になった妻の介護に全てを捧げていた。その介護の様子をテレビや本で公開したことから賛否を呼んだが、第三者があれこれ言うのは実に野暮であると当時は思ったものだった。妻を看取った2年後、長門裕之も南田の月命日に黄泉へと旅立っていった。そんな彼の墓は、東京都中野区の高徳寺にある。墓には「加藤家之墓」とあり、入口に墓誌が建つ。戒名は「極芸院釋浄晃」