2018年 07月 21日
笠置シヅ子(1914~1985)
笠置 シヅ子(かさぎ しづこ)
歌手・女優
1914年(大正3年)~1985年(昭和60年)
1914年(大正3年)、香川県大川郡相生村(現在の東かがわ市)に生まれる。本名は、亀井 静子。父は砂糖業を営む豪農の息子で、母はその家の家事見習いとして同居していたことから結婚を認めてもらえず、母は生後間もない静子を連れ実家に戻った。しかし、母乳の出が悪く、出産のために里帰りしていた大阪市福島区の米屋の妻だった亀井うめに貰い乳をしていた。結局、その貰い乳をしていた女性が自分の実子と一緒に静子を大阪に連れて帰り養女となったが、シヅ子が自身の出生について気づくのは後年になってからであった。養女として入った亀井家は芸事が好きな一家であり、静子も5歳のときに養母の勧めで日本舞踊を習う。やがて静子も芸好きな少女へと成長し、銭湯の脱衣場で歌や踊りを披露するようになる。1927年(昭和2年)、宝塚音楽歌劇学校(現在の宝塚音楽学校)を受験。歌・踊りは申し分ない実力をもちながら、当時のシヅ子が上背が小さい上、極度の痩せ型であったため、過酷な宝塚生活に耐えられないのではとの学校側の判断で不合格となる。落胆する静子に近所のおばさんが「松竹楽劇部生徒養成所」(OSK日本歌劇団のかつての養成学校・日本歌劇学校の前身、後の大阪松竹少女歌劇団)を勧め、同所を受験して合格。娘役・三笠静子の芸名で『日本八景おどり』で初舞台を踏む。1933年(昭和8年)、『秋のおどり・女鳴神』での演技が好評を博し、トップスター10選に選ばれるなどスターの仲間入りを果たす。1935年(昭和10年)、崇仁親王が三笠宮を名乗ったのを機に「三笠を名乗るのは恐れ多い」と笠置シズ子に改名。1937年(昭和12年)、大阪松竹少女歌劇団の東京公演で東京松竹の関係者の目に止まり、翌年に帝国劇場で旗揚げした「松竹樂劇団」(SGD)に参加。同劇団ではジャズシンガーとしての才能を開花させ、「スウィングの女王」と呼ばれた。また、劇団の副指揮者として在籍していた作曲家・服部良一と出会い、その才能を認められコロムビアレコードから『ラッパと娘』で歌手デビューを果たす。服部は自伝『僕の音楽人生』の中でシヅ子との出会いについて、「大阪で一番人気のあるステージ歌手と聞いて『どんな素晴らしいプリマドンナかと期待に胸をふくらませた』のだが来たのは、髪を無造作に束ね薬瓶を手に目をしょぼつかせ、コテコテの大阪弁をしゃべる貧相な女の子であった。だがいったん舞台に立つと『…全くの別人だった』。3センチもある長いまつ毛の目はバッチリ輝き、ボクが棒を振るオーケストラにぴったり乗って『オドウレ。踊ウれ』の掛け声を入れながら、激しく歌い踊る。その動きの派手さとスイング感は、他の少女歌劇出身の女の子たちとは別格の感で、なるほど、これが世間で騒いでいた歌手かと納得した」と記している。しかし、「贅沢は敵だ」をスローガンとしていた時代に、3cmもある長い付け睫毛に派手な化粧と身振りが警察から睨まれることとなり、丸の内界隈の劇場への出演を禁じられる。また、激しく踊り歌うシヅ子のステージも当局の目に留まるところとなり、マイクの周辺の三尺(約90cm)前後の範囲内で歌うことを強要されるなどの辛酸をなめた。その一方、松竹の『弥次喜多大陸道中』で映画初出演し、女優としての活動もスタートさせた。1941年(昭和16年)、SGDが解散。「笠置シズ子とその楽団」を結成して慰問活動などを行うも、シヅ子が「敵性歌手」に指定されていたことから戦地での慰問興業に参加できず、地方巡業や国内の工場慰問を行った。戦後にヒットした『アイレ可愛や』は、テーマを南方にしたことによって難を逃れたステージ用の楽曲であり、シヅ子は兵隊や軍需工場の慰問で好んで歌った。1943年(昭和18年)、名古屋の太陽座で公演していた俳優・辰巳柳太郎の楽屋に挨拶のため訪問。ここで吉本興業の興業者・吉本せいの次男である吉本穎右と出会う。笠置のファンだった吉本と、生粋の美男子好きだった笠置の二人は程なくして結ばれ、1944年(昭和19年)には結婚の約束を交わすまでになる。同年、マネージャーが勝手に楽団を売却し、「笠置シズ子とその楽団」は解散となる。1945年(昭和20年)、東京大空襲で自宅を焼失。吉本興業・東京劇場の支配人であった林弘高に誘われ、フランス人に貸していた家に入居。同じく東京大空襲で自宅を焼失した吉本穎右と同棲する。同年11月、再開場した日本劇場の戦後第1回公演『ハイライト』に出演し、戦後の活動をスタートさせる。1946年(昭和21年)10月、妊娠が発覚。吉本は子供の認知と、吉本家の理解を得たうえで入籍することを約束したが、穎右を吉本興業の後継者に待望していた母・せいはシヅ子を気に入らず、断固として結婚を認めなかった。その頃、幼少より病弱であった穎右は結核を発症。シヅ子は舞台『ジャズカルメン』に主演中であり、この舞台を最後に芸能界を引退するつもりであったが、5月19日に吉本穎右は24歳の若さで病没。6月1日、シヅ子は穎右が着ていた丹前を握りしめながら女児を出産。穎右の遺言に従い、女児はエイ子と名付けられた。その後、服部良一や榎本健一をはじめとした周囲の励ましもあり、歌手生活の続行を決意。乳飲み子を抱えて舞台を努める姿は、当時「夜の女」「パンパン」と呼ばれた、生活のために止むを得ず売春を行う女性たちに深い共感を与えた。10月、日劇のショー『踊る漫画祭・浦島再び龍宮へ行く』で歌った『東京ブギウギ』が大ヒット。以後、『大阪ブギウギ』や『買物ブギ』など一連のブギものをヒットさせ、「ブギの女王」と呼ばれる。当時の歌謡界において、東海林太郎や淡谷のり子など歌を重視する従来の歌手とは異なり、シヅ子は派手なアクションと大阪仕込みのサービス精神にあふれ斬新なものであった。『ヘイヘイブギ』ではシヅ子が「ヘーイ・ヘイ」と客席に歌いかけると観客が「ヘーイ・ヘイ」と唱和し、文字通り舞台と客席が一体となるパフォーマンスを繰り広げ、「ホームラン・ブギ」では高下駄で応援団長の扮装で登場、勢いあまって客席に転落。「買物ブギー」を歌うときは熱演のあまり、履いていた下駄がいつも真二つに割れてしまうほどであった。映画においても榎本健一とのコンビで多くの映画に出演し、その明るいキャラクターで大活躍となった。ブギが下火となった1956年(昭和31年)、シヅ子は歌手廃業を宣言。客を満足させる歌声・踊りが出来なくなったからとも、一人娘の育児を優先・徹底させるためだったともいわれたが、後年出演したテレビ番組で「廃業の理由は『太りかけたから』だった」と告白(昔と同じように動けていれば太るはずはない、太ってきたのは動けていないから)。またそれに関連して「自分の一番いい時代(ブギの女王としての全盛期の栄華)を自分の手で汚す必要は無い」とも語った。シヅ子はこの年のNHK紅白歌合戦に出場し、大トリとして『ヘイヘイブギ』を歌い、歌手活動から引退した。その後、芸名を笠置シヅ子と改め、女優活動に専念。このとき、各テレビ局、映画会社、興行会社を自ら訪れ、「私はこれから一人で娘を育てていかなければならないのです。これまでの『スター・笠置シヅ子』のギャラでは皆さんに使ってもらえないから、どうぞギャラを下げて下さい」と出演料ランクの降格を申し出た。女優としては得意の大阪弁を生かした軽妙な演技で多くの作品に出演。1967年(昭和42年)からは、TBSの人気番組『家族そろって歌合戦』の審査員を務め、1971年(昭和46年)からは、カネヨ石鹸の台所用クレンザー「カネヨン」CMのおばさんとして親しまれた。1981年(昭和56年)、乳癌を発症。手術に成功したものの、1983年(昭和58年)に癌が卵巣に転移していることが発覚。1984年(昭和60年)9月に再入院し闘病生活を送っていた。1985年(昭和60年)3月30日午後11時43分、卵巣癌のため中野区の立正佼成会佼成病院で死去。享年70。病床で自分の役をテレビで演じている研ナオコを見ながら「日劇時代は楽しかったね」とポツリと呟いたのが最期の言葉だった。
「ブギの女王」として戦後の世相を歌で明るくした笠置シヅ子。所狭しと動き回るダイナミックさとパンチの効いた歌声は荒廃した日本にパンチを与えた。後年歌手業を引退し女優にシフトチェンジをした彼女であったが、一度でいいからその歌声をテレビで披露してもらいたかった。昭和40年代に訪れた懐メロブームでも頑なに歌うことを拒否し続け、その姿に浪花女の意地の強さを感じたものだった。晩年は明るくたくましく生きる母親役を好演していた笠置シヅ子。彼女の墓は、東京都杉並区の築地本願寺 和田堀廟所にある。墓には戒名である「寂静院釋尼流唱」とあり、右側面に「俗名 笠置シヅ子」として墓誌が彫られている。