2018年 07月 21日
森茉莉(1903~1987)

森 茉莉(もり まり)
作家
1903年(明治36年)~1987年(昭和62年)
1903年(明治36年)、作家・森鷗外の長女として東京市本郷区駒込千駄木町に生まれる。幼少期より鴎外を始め非常に多くの人に囲まれ、生来病弱だったことから可愛がられて育った。特に鷗外の溺愛ぶりは有名で、彼女は16歳まで鷗外の膝の上に座っていたという。東京女子高等師範学校附属小学校(現在のお茶の水女子大学附属小学校)に入学したが、10歳の時に教師と衝突して中退し、仏英和尋常小学校(現在の白百合学園小学校)に転校。1919年(大正8年)3月、仏英和高等女学校(現在の白百合学園高等学校)を卒業。同年11月、鷗外の紹介でフランス文学者の山田珠樹と結婚。1920年(大正9年)、長男の山田𣝣を出産。1922年(大正11年)、1年間渡仏してパリに住む。この経験で幻想的な芸術世界を艶美繊細に築き上げる文学的資質が開花したといわれている。同年、日本で最愛の父が死去。1925年(大正14年)には次男の亨を出産するが、夫の芸者遊びなどが原因で1927年(昭和2年)に自らの意志で離婚。その後、東北帝大教授の佐藤彰の後妻になるが、「仙台には銀座や三越がないんですもの」と仙台での暮らしを嫌がり、「では実家に帰って芝居でも見ておいで」と送り出されて、離縁させられた。再婚生活は1年足らずで終止符となり、佐藤の連れの娘2人(弘子・登世子)にも馴染めなかったようである。戦争中は森家に寄宿する生活だったものの、いわゆる「出戻り」であったため、肩身の狭い生活だった。1947年(昭和22年)、世田谷区にて一人暮らしを始める。長らく無職だったが、この頃に鷗外作品の著作権が切れて印税収入が入らなくなったために文章で稼ぐ事を余儀なくされ、一時は花森安治が編集する『暮しの手帖』の編集部に身を寄せていた。この前後に多くの文人と交わる他、離婚により離れることとなった子供たちと再会するなどしている。特に、性格の似ていた長男の𣝣とは恋人のような生活だったという。1957年(昭和32年)、父・鷗外に関するエッセイを集大成した『父の帽子』を発表し、第5回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。三島由紀夫などから激賞され、一躍作家の仲間入りをする。以後、エッセイや日常生活の中の小さな出来事を描きつつ、貴族趣味的な美意識を漂わせた独特の私小説などを書き続けた。1961年(昭和36年)、『甘い蜜の部屋』で泉鏡花文学賞を受賞。1975年(昭和50年)、『恋人たちの森』で田村俊子賞を受賞。その後も、父・鷗外の話を中心に多くのエッセイを執筆し、全集も出版されている。『贅沢貧乏』などでは、独自の美学を表現する。1979年(昭和54年)、『週刊新潮』誌上で『ドッキリチャンネル』の連載をスタート。独特の審美眼と華麗な言語表現により、手放しの賞賛と忌憚のない意見を織り交ぜてテレビ番組やタレントを批評し、1985年(昭和60年)に心臓発作で入院して連載打ち切りになるまで連載を続けた。私生活においては、「子どもがそのまま大きくなったような人」と評された茉莉の生活能力の無さは自他共に認めるところであり、家はかなり散らかった様子であった。しかし、唯一料理だけはかなりの腕前と自負しており、実際に茉莉の料理を口にした人の多くがその味を褒めている。作るだけでなく食べることも大好きで、小説で好んで食事のシーンを書いたほか、エッセイで得意料理の拵え方やお気に入りの食べ物についての記述箇所が多くある。1987年(昭和62年)、通いの家政婦が彼女が世田谷区経堂のアパートの自室で倒れているのを発見。すでに心不全により死去していて、死後2日が経過していた。享年85。



文豪・森鴎外の娘として生まれながらも孤高に生きた森茉莉。その独特の感性と耽美的な文体から「永遠の少女」と呼ばれた。チャウチャウのぬいぐるみを可愛がり、晩年はテレビに夢中となって辛辣なテレビ評を書いていた森茉莉。喫茶店のミルクティーの味が気に入らず、自らそのお店のマスターに美味しいミルクティーの作り方をレクチャーしてしまう森茉莉。そんな純真無垢な彼女の最期は、東京・経堂の陽が当たらない散らかし放題のアパートの一部屋で誰にも看取られることなく世を去った。その死をマスコミは「孤独死」と叫び、後に桜京美、大原麗子、山口美江と続く著名人の孤独死報道の先駆けとなってしまった。森茉莉の墓は、東京都三鷹市の禅林寺にある。「森林太郎墓」と刻まれた森鴎外の墓の左二つ目にある「森家墓」に森茉莉は納められており、背面に墓誌が刻む。

